本

『検索バカ』

ホンとの本

『検索バカ』
藤原智美
朝日新書140
\777
2008.10

 タイトルがどぎつい。この著者、別に『暴走老人!』という、センセーショナルな本を書いている。これがまたかなり読まれた。話題になったのは間違いない。こういう意味では、キャッチコピーというか、本のタイトルを考えるのが美味いと言わざるをえない。
 ところがこのタイトルの過激さに比べて、本の内容は実に穏やかである。いや、かなりきついことが書いてある、と見る向きもあるかもしれないが、私の目から見ると実に誠実で、信頼のおける書き方がしてある。およそタイトルから私が受けるイメージとは、ずいぶん違うものだと思った。
 この本は何が言いたいのか。つまるところ、「考える」営みについてである。子どもが考えなくなっている、などと子どもに責任転嫁して正義ぶっている大人たちに、強烈な戒めをぶつけている。
 要するに、私のスタンスと、どこか似ている。考えることの欠如や衰退をはっきりとこの時代の中に見るのだが、それは大人の責任だということを、決して外さずに語るのである。
 タイトルがうまいと記したが、実は時代的に考えると、タイトルの付け方は下手なのだ。というのは、この本は「空気を読む」ことの分析から入り、それで大半を費やしているのだが、これをタイトルやサブタイトルに入れたほうが、注目度はきっと上がるはずである。だが、それをしなかった。理由は不明だが、「空気を読め」などという流行語がそう長く続くわけではなく、また、その言葉がタイトルにあるのならば、その言葉が今のように流行らなくなったとき、時代遅れの本だと蔑まれないように考えたのではないか、と推測する。
 その通りだ。筆者が言っているように、「空気を読む」というのは、この流行語と共に現れたわけではない言葉なのだ。それはしばらく前から現れたことに触れている箇所がある。そのとき、日本人や日本社会において、ある傾向が生まれ、人々は思考しなくなった。そういう背景を、社会学者が論ずるのとは違う仕方で、どこか文学的に、語っている。
 それは、「世間」という言葉ともつながりがある。単純にモラルの低下、モラルハザードなどということで済ませられる事態ではないのである。
 詳しくは、お読みください。私は面白かった。私の考えているような地盤で考えられた思索がそこにある。哲学のような緻密さではなく、あくまでも文学者の感覚によるところが大きいものだが、だからなおさら、しっくりくる書き方が多い。とくに体験と喩えによる説明は、分かりやすいアレゴリーとして、たとえばグループ読書でこの本を題材に選んだときには、大いに論じるとよいものだと感じる。
 単に昔を懐かしがっているだけでもないし、個人的に誰かを非難しようとしているわけでもない。学的に分析して理論化しようとしているわけでもない。しかし、そういう素朴な文学者的直感というのは、しばしば的を射ているものである。大人に「考える」営みを興してもらうためにも、大いに大人たちがこの本の主張に耳を傾けるとよいて思う。
 終わりのほうだが、自分自身への言及なしに意義ある思索がない、という旨を伝えようとした点は、私は思わず拍手したくなった。私たちの言明は、自分をも切り倒すような働きをもつ道具でなされるのであるから、自分へのフィードバックを経た形で、しかも人格ある人との対話の中に、生き生きと活動することがあるだろう。
 言葉の力などという抽象的なものの存在を信じてそれに操られるよりも、言葉の力などは存在せず、あるのはただ力ある言葉である、ということを、冒頭にも、巻末にも載せている。結局、ここが一番強調したがっていることではなかっただろうか。そのためには、私たちが考えるという行為が、どうしても必要になる。それも、自分自身への言及を含めた上での行為が。
 私もまた、キーボードに多くの時間向かっているが、それはしばしば頭の中で考えることやそれをまとめることのために費やされる。単純な検索バカではないはずだと思うのだが、その範疇にしっかり入っているかもしれないという恐れをももっている。筆者は、筆者なりに痛みをもってこの本の原稿を書いている。自分への批判や検討なしに、言いたい放題言っているのではない。そういう、「おとな」の思索の現れであったのかもしれない。




Takapan
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