本

『子どもの脳が学ぶとき』

ホンとの本

『子どもの脳が学ぶとき』
戸塚滝登
高陵社書店社
\1680
2008.7

 四半世紀にわたり、教育現場で子どもたちを見てきた著者であり、最近はたくさんの教育の本を出版しているらしい。
 何か、抵抗を覚える。面白い教室の風景も描かれるし、その描き方のテンポもいい。そして、脳科学の成果を紹介しようとしているのも、当面さほどイヤミは感じなかった。だが、何か、ひっかかる。
 もしかすると、ある原理からすべてを説明しようとしているのではないか。何かしら現象から、ある原理を想定する。するとその原理が、さほど検証もされずに正しいものとされ、今度はその原理から説明がなされていき、教育の方法論のレールが敷かれていく。そんな印象をもった。
 コンピュータを駆使して、教育に活用するということをしてきた方のようだ。その長い経験と実践とを軽んずる気持ちはないが、どうも、システムを早く構築したいと考え、そのシステムができるとそのシステムに従うのが善であるというふうに捉えている感じがする。
 人間機械論にしても、脳や生理機能にある種のメカニズムがあるのは本当だろう。だが、ピアノを調律するかのように、子どもたちの脳を調律すればよい、のような発想は、はたして教育そのものを、もしかすると誤解しているのではないだろうか、とさえ思う。
 読者に対しても、問いを投げかけておいて、答えは出そうとしない。「そのくらい、説明しなくても分かるでしょ」のような態度が鼻につく。子どもを相手にするにしても、そしてまた、天才を見抜けなかった幾人かの歴史上の教師に対しても、どうも高いところから見下ろしているような態度が、この本からは感じられてならないのだ。
 実は途中で、ハルマゲドンの冗談が入るところで、私はぷつんと興ざめしたのだ。
 ハルマゲドンとは英語ですか、と教師仲間が問うのに対して、「はい、正確にはアーマゲドンっていうのですけど」と答えるところからそのジョークが始まっていくのである。  ハルマゲドンは英語ではない。聖書に由来するものだから、英語より歴史は確実に古い。英語で頭の気息音「H」が消えていくことはままあることで、わざわざカタカナの横に"Armageddon"とルビを打つほど英語こそ原語だ、みたいな思い込みが示してあるのは、どうにも解せない。さしあたり著者の語ったように「最終戦争」の意味だというのは、元々は当然地名でしかないのだが、近年の受け取り方からして許容範囲ではあるだろうにしても、ハルマゲドンが「正確にはアルマゲドンっていう」というのは、単なる思い込みでしかない。第一、このフレーズはこのジョークにとって本質的な部分でも何でもないので、わざわざ英語の教養を振りかざすようでイヤミに聞こえる。この人は自分の思い込みを正しいと断定していくタイプなのだ、と私は感じた。
 脳科学の理論や特殊な心理学をふんだんに展開しているが、この人はそういう専門家でもないようだ。となれば、どこまで信用できるかどうか分からない新しい学説をうまく活用して、自分の発想を正当化しようと基礎付けているのではないか、という疑いももつことができるだろう。話がうまく巧みなので、ついその調子がよい口調に肯いてしまいがちだが、だからなおさら、読者は注意しなければならない。一般に(この著者とは無関係な話として)中途半端に知られている科学知識ほど、人を騙すために用いるために有効なものはないのだ。
 終わりのほうで、佐世保での事件が大きな転換点になったことが告白されていた。コンピュータ教育で何でもできると信じてやってきた人であるから、たしかにショックを受けたのだろう。このあたりにも、この人がある方法を善しと信じたら万事それを原理として突き進むタイプであることが示されている。その原理が問われたのだ。それはショックだったろう。そして生徒の五感全体で得るものを大切にしたいと言わしめているのであるが、それでもなお、やはり何か原理的な方法があるに違いないという姿勢は変わらない。今度は脳科学や心理学なのだろう。しかし、ピアノの調律にたとえたその子どもへの教育の原理的考えは、やっぱりパソコン教育を喜んでいた時期と、基本的に何も変わっていないというふうに受けとめざるをえなかった。
 物理学科卒業だということだが、まさか、物理法則のようなものが教育の次元でもあると信じて疑わないのではないだろう。哲学者カントも、かつてはそのようなところがあった。今も基本的に有効だとさえ言われている宇宙生成論もそのような視点での産物ではないだろうか。それが、ヒュームの懐疑論に自分の独断性から目覚めさせられて後、人類史上に残る自由の哲学を建て上げていったのである。そして最後にその自由を国家論に築いた後に、永遠平和論というこれまた私たちの社会の理念として今も謳われる思想に至ったのであった。その意味で、独断のまどろみを、私はこの著者の中に感じていた、というのが結論である。もちろんそれは、さまざまなよいことを提案しておられるがゆえに、残念に思う、という意味である。




Takapan
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