本

『風の中「あなたはどこに?」と問う声』

ホンとの本

『風の中「あなたはどこに?」と問う声』
池田康文
女子パウロ会
\1300+
2014.4.

 教員の経験があり、新聞関係の編集の仕事に携わっていという方で、いわばプロの説教者、牧会者ではない。あるいはカトリックであれば祭司などとお呼びすればよいのだろうか。しかし、これだけの恵みある内容の著述ができる方が一般にいるということで、カトリック界を羨ましくすら思う。
 東京教区カトリック豊四季教会の教会ニュース「風かおる丘」に「味わう聖書」という題で連載されていた記事を改めて集め、まとめたものであるという。質の高い記事である。
 聖書から、私はこんなふうに感じました、というような内容のものはいくらでもある。自分の人生記録を公示するというものもある。また、説教をそのまま文字にしたもの、というものもしばしばある。しかし、聖書の中の神の隠れた思いを、元の言葉から徹底的に聞こうとする試みは、一定の教養と深い思索、黙想が必要となる。聖書を日本語だけで読んでいたのでは味わえないこと、すなわちまた、日本語に引きずられて誤解しやすいことを正してくれるという意味では、貴重な試みであるに違いない。私はこのタイプの解説が好きだ。
 初めにエレミヤ書のアーモンドの件が取り上げられているが、その他はすべて、モーセ五書と福音書である。可能ならば他の様々な箇所からも聞きたい気がするが、さしあたり散漫にならないために、この方針は優れていると受け止めよう。ヘブライ語とギリシア語と両方に通じていなければこのどちらもというのは難しい。これらの言語は系統的にも大きく異なり、文法も構造も、また表現方法も全く違う。新約時代に読まれていたであろう旧約聖書が七十人訳と呼ばれるギリシア語であったという事情はあっても、特にプロテスタント教会が重んじているヘブライ語による理解は軽く考えてはならない。ラテン語の伝統の中に長らくあったカトリックのほうでも、ヘブライ語重視の傾向を強く覚える昨今は喜ばしく感じている。それは、ユダヤ教との対話にも役立つことだろう。近年ユダヤ教のラビから、新約聖書に近づく歩みもいくらかあるわけで、いわば同じ聖典のもとでの対話が交わされることには、平和に導く意味があることだろうと思うものである。
 それはそうと、この本から受ける刺激は小さくない。著者は、新共同訳聖書はもちろんのこと、新改訳聖書も駆使して、その欄外注の説明も加えて、そのうえ原語のニュアンスからの適切な訳を作り出そうと動いている。この営みは大切であろう。もちろん、著作権云々という理由で、出版されている書物としての聖書を改変することはできないし、勝手に修正する思いで立ち向かっても仕方がないのだが、日本語の既定訳がすべての真理であるというわけではもちろんない。実際、数年後には新たな聖書が提供されることが決まっている。そういう中で、自分の霊のために味わうという意味で、原語のもつ、普通表に出てこない感覚や他の箇所での使われ方といったことには、私たちは強い関心をもってよいと思うのだ。そうでないと、日本語で表現されたその言葉により、およそ的はずれなイメージを私たちが抱き、神の恵みとはその程度のものかと思ったり、はてはとんでもない勘違いをしたりするかもしれない。私は、そういう教団を経験しているから、勝手な思い込みを「霊的」などと称して、およそ原語を完全に無視した解釈をする自分の教団のリーダーを崇め、他の教会は間違っている、と教えこんでいくような愚かなことを、もう今後はしてはならないと思うのだ。
 本の装丁として、ゆったりとした行間が用意されているのは、私はとてもよいと思う。情報量がその分少なくなるのは確かだが、この本は、行間から味わうものがある。また、読者は行間に自分の感じ方や黙想を、埋め込んでいかなければならない。本の副題に「味わう聖書」と、連載のときのタイトルも付せられているが、まさに味わうというのは、表に感じられない味、隠し味あってこその味わいである。味の深み、口に含んで初めて漂う香りなどの効果は、本の場合、行間にあるものなのだ。
 ひとつひとつの指摘をノートして、随時説教や黙想に用いることもできるだろう。何気なく開いてしばしの時を過ごすのもいい。その際、あまりにいくつもの項目を一度に読まず、ひとつずつ味わうのがよいだろうと思う。口に食物を頬張ると、味わいはなくなるのである。
 まことにこの本は、聖書との、そして神との、よい出会いが導かれる、貴重なガイドである。




Takapan
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