『風は思いのままに』
片山寛
中川書店
\1700+
2006.9.
若者にマラナ・タと祈る説教集。このようにタイトルに添えてある。地味な装丁だが、心が感じられる。若い人にどう語るか、なかなか難しい。ここには、著者が西南女学院短期大学に勤めている時に、そのチャペルアワーで語ったものが集められている。その都度の場の雰囲気もよく伝わってくるし、なんといっても信仰のない若い数百人の女子学生を前にして語るというのは、その内容も語り方も吟味されなければならない。もちろん日ごろふれあっている学生たちではあるが、聖書のメッセージである。興味のない学生は眠るかもしれない。
実はここのチャペルアワーで私は語らせて戴いたことがある。私は牧師ではないが、福音を語る機会があれば馳せ参じる思いである。ただ、上記のような情況で語るというのは初めてでもあり、何も分からない海に飛び込んだように気分であった。時間内では収めたが、それでも長めだったかもしれない。あの場の雰囲気は頭に浮かぶので、この本にある説教が如何に聞きやすかったであろうか、たくさん学ぶことができたように思う。
まず聖書から入るということはしない。後で一気に聖書の話でまとめる。身近な出来事や話題、事柄を語り、ともかく話の中に引きいれる。さすがにそれが巧い。時折、自身の体験も盛り込まれる。自分の妻とのつきあいのあたりのことが何度か出てきて、ある意味で痛快というか、拍手を贈りたい気持ちになった。親しみやすいメッセージばかりである。さすがだ。
このような語り口のメッセージは、多分に参考にもなる。毎週の礼拝というのでなしに、突然の出会いの中で語るというほうが、若者相手には大いにありうるものであろう。大勢を目の前にしてでなくても、若い人の心をどう捉えるか、あるいは若い人たちの会話の中にどのように入っていくか、そんなところを学ぶよい機会となるはずである。
本のタイトルを直接題としたメッセージはない。ただ、そのヨハネ3:8の箇所から語られたものは二つある。やはり、その二つはとてもフレッシュで心に残った。その初めのほうについて少し触れることにする。
吉田晃児先生がその前週に語ったという。この牧師の長女が学校で遣う抽斗を手作りしたエピソードだったようで、親子の信頼関係がそこに伝わってきたのだという。その末っ子が、俳優の吉田羊さんであり、そのお兄さまとは私も面識がある。この親子関係にメッセージは注目し、信じることと自由にされていくことが説かれていく。信仰は、固定観念から解放してくれるのだ。そして私たちの心の中に閉じ込められるような神は、私の思い込みであり偶像に過ぎない、という。信仰とは、だから、神に向かって心が開かれるようなものである、と気づかせる。神を自分が捕まえたと思った瞬間、神は風のようにすりぬけていく。だから、心には穴をもつのがいい。穴を塞ごうとしてはならない。その心の風穴から、神の新しい風が吹き込むのだから、とメッセージは進んでいく。しかしその風を止めてしまうものがある。壁である。結局自分自身がその壁となってしまう。著者は自分が大学に行かなくなったときのことをここで話し、ついに辞めてしまったと知らせる。落ち零れて初めて気づくことがある。自分がひとを道具のように考えてしまうエリート主義があることを痛感したのだという。しかし落ち零れて自分は傷つき、心に穴があく。その風穴をひとは普通塞ごうとする。だが塞いでは鳴らない。その穴こそ、苦しみこそ、私たちの信仰なのだ、愛するということはそこから生まれるのだ、というのである。心の穴は、そこから神が来る通路なのだ。それは、固定観念から自由にしてくれるものなのだ。
よく、心の窓を開けよう、とは言う。しかし、疵穴そのものが神の通路だとは。もちろん、そのようなメッセージはほかにもたくさんある。しかし、ここには風という、霊と同じ言葉、あるいは命の息と同じ言葉を用いて、豊かなイメージが使われている。ほんとうにいまここに風が吹いてくるような気がしてくるではないか。
教義的な深みや、神学的議論は、基本的にない。だがここには、聖書の言葉が、命となって流れてくる川があるのが見えてくる。風が吹いてくる。これぞ、ひとを生かす言葉である。これらは、そのままキリスト教会の礼拝メッセージにもなりうるものであると私は信じる。多くの説教を聞いた信徒だからこそ、何か勘違いをして別の方向に向かっていい気になって走っているということがありうるものだ。そんなとき、新しい上からの風を吹かせてもらおう。ここには命の言葉が流れている。ベテラン信徒だからこそ、この聖書をもよく知らないような若い学生に向けて語られた言葉が、方向の修正になりうるものであると、私は信じている。