本
ホンとの本

『風の歌を聴け』
村上春樹
講談社文庫
\352+
1982.7.

 ハルキストの方々の目に触れるのが怖いと思う。全然初心者だし、何も分かっちゃいない。それがご紹介申し上げるというのは、あまりに無謀な試みであろう。
 ピンボールのほうを先に読んだので、それなら同じ鼠の出てくる、しかしある意味で背景になりうるかもしれないこちらを読むのもアリだろうというくらいの気軽な気持ちで手にした次第である。
 ただ、作者としても、そうした気軽さで手に取って感じてもらいたいというふうに考えているのではないか、という気もする。それでお許し戴きたい。  デビュー作といってもよいのだろうか。群像新人文学賞受賞作であり、芥川賞の候補にもなったという。粋でオシャレな風を当時吹き込んだのではないだろうか。いま読んでも、自然に読めるように感じる。
 確かに、ここには携帯電話もないし、いまふうのインターネットにまつわる連絡や情報もない。地道に歩いているだけの世界だし、せいぜい電話がかかってくるくらい、また大学に個人情報を問い合わせて得られるような長閑な時代でもあったことが読みとれるので、ちょっと空気が違うことは感じる。流れている音楽や背景にある文学も、必ずしも今様ではない。そして若者の間に漂う無気力さや行き当たりばったりのムードも、いまの若者には受け容れられないものではないかと思われる。
 しかし、堅実に生きようとする真面目ないまの若者でも、何かしら懐く不安や意のままにならないもどかしさなど、共通の心理がつながることはあるのではないか。私も世代的にはこれよりは若いほうに入るが、いくらかでも重なる部分がないわけではなく、あの時代の空気がまるで分からないというほどではない。こんなにオシャレな会話や無謀な生活を好むものではないが、日本なら高度成長期で上り詰めた勢いの中、アメリカで蔓延していた大人社会への反抗のエネルギーのようなものと混じり合って、主人公の僕は、いろいろな出会いを繰り返す。
 村上春樹自身、後にこの作品を未熟なものと見ていたようであるが、それも確かだろう。しかし、若さの中にある未熟は、後に直すべきものではないだろうし、ここに見られる、構成を綿密に立ててから書き始めるような小説のスタイルというよりも、主人公や登場人物の設定のみであとは自由にそれらが動いていき、際立ったストーリーを伝えるような意図が感じられないものは、その時の流れでひとつの作品が成り立つのであろうし、その流れに読者が乗っかってくれるかどうかというあたりで、評価も落ち着くものだろう。そして、受け容れられたからこそ、その後の作品ができていったということにもなるのであろう。
 小説なのでストーリーをここに書き記すのはよろしくないと考えるが、例によってというか、殆ど登場人物に名前が付けられたり名前で呼ばれたりしないというスタイルは、何なんだろうとひっかかる。作家や音楽家についてはいやというほど名前が飛び交うのに、名前らしいのは、バーのジェイくらいだ。鼠すら、その名のいわれも何もなく、いきなり鼠というだけだが、この鼠という友人は、その後三部作で共通して登場することになる。かといって、尤もらしいつながりで描いているようにも見えないのだが、そこはまたファンの方々がちゃんと訳を知っていることなのだろうと思う。そして、謎解きが盛んになされているのではないかとも思う。
 どこまでが本当でどこからが嘘なのか、まるで分からないような表現や会話がふんだんに味わえる。すべて虚構だよ、と笑って説明されそうな気もするし、すべて本当だよ、と真顔で告げられるかもしれない。アメリカの小説の翻訳を思わせるとよく評されるが、確かに否定はできないだろう。でも、そんな批評はともかくとして、小粋で洒落た会話や言い回しは魅力的だ。そういうのがあるということだけで、十分「存在理由」はあると言えよう。この言葉も作品中でちょっとした小道具のようであったが、案外重層低音であったかもしれない。
 さて、今日はどんな風の歌がきこえてくるだろう。そんなふうに、ちょっと思わせてくれたとすれば、この本を読んでよかった、と言えるのかもしれない。ただ、これほどまでにビールを飲みたいとは、考えないのだけれども。




Takapan
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