『可哀想な蠅』
武田綾乃
新潮社
\1550+
2023.9.
やはり「響け!ユーフォニアム」の作者、と言った方がいいはずだ。シリーズは小説で出されたが、京都アニメーションがアニメ化し、人気が爆発した。すでにヤマハでも看板キャラクター出あるし、テレビシリーズは再放送がいま継続中である。そして2025年春には、映画にてその完結編の上映が始まる。単に吹奏楽というドラマのみならず、特に女性心理をよく描き出しており、多くのキャラクターがそれぞれに一人ひとり生きている力を見せている。
その作者による小説は、他にはあまり読んだことがないので、手に取ったままに開いたのが本書である。2019年から「小説新潮」に掲載された作品に、ひとつだけ書き下ろしとして加えられており、四つの短編から成る。それぞれ独立した物語であり、つながりというものはないので、一つひとつ区切って読むとよいだろう。私も4日に分けて読んだ。
標題の「可哀想な蠅」では、大学生の芽衣子が見かけた光景をSNSに投稿することから、その道に落とされてゆく。子猫の入った箱を蹴るおじさん。しかし、それが偽りだというネットの反応があり、執拗にそれを繰り返す者がいた。話の展開をここに記すことは私はしないので、この後どんどんと怖い事態になってゆく。恐怖のどん底のような中で、芽衣子はそういう投稿者を可哀想な蠅だという目で見るようになるのだ。その意味は、物語を通してお感じになって戴きたい。
次の「まりこ」も猫が登場する。近所の「まりこさん」という母親世代の女性だが、野良猫にえさを耐えることで、町内の人は困っていた。だが、小学三年生のときどこかで孤独だった由美は、猫をきっかけにまりこさんと親しくなる。由美は東京に行き、30歳を前にこの町に戻ってきた。そしてまたまりこさんの家に行くようになる。まりこさんは相変わらずだったが、由美の母親を含め、近所の人の目は冷たい。意見が合わないのだ。町内では、避妊手術を施して、野良猫を増やさないようにしたいと言うが、まりこさんは、それは猫にとり可哀想なことだ、と譲らない。由美は、町に戻ってきたならば、猫を飼わないか、とまりこさんにもちかけられる。
まりこさんは悪い人ではない、と思う由美は、その方向で動き始めるが、さて、その後どうなるか、これも結構怖い。
この問題については、私も地域猫に関わる当事者である。殺処分される猫の多くは子猫である。そこで、避妊手術をして子猫を増やさない運動である。だが、それは人間の勝手だという、まりこさんの論理も、気にならないわけではない。確かにそうだ。人間が殺すから子猫を産めないようにする、それが猫にとりよいことなのかどうか、確かに問題があると言える。しかし、子を産むことが幸福だからと自由に産ませてしまえば、現実に子猫が捕まえられて殺されてしまう。悩ましい問題なのである。
次の「重ね着」は、結婚を前にした妹に対して、結婚の計画もない姉がいろいろ心の内に思うことを綴ったようなお話。これが私にとり心に残るのは、それが京都の伏見稲荷大社を舞台にしていることだ。そもそも武田綾乃自身、京阪電鉄沿線にいたわけで、伏見稲荷駅もその路線である。そして、近年インスタ映えにもなってとみに知られるようになった、千本鳥居がそこにある。私も歩いたことがあるし、一時その近くに住んでいたから、四ツ辻とかいうのが何かもよく知っている。地元感丸出しで読んでいた。
最後の「呪縛」は書き下ろしである。「いい子」という言葉に育てられていた麻希は、高齢の父の介護で苦労した経験がある。そのため大学を休学もした。いまは東京のIT企業で働いている。恋人らしい男性もいるが、肉体関係がない。そんなものかと長く付き合っていたが、ついに相手がそういうことを望まないことが判明し、別れる。そこへ、社内の別の男性の恋人と、麻希とが成り行きから友だちになる。ところがその女性が、男性から暴力を振るわれるというので、麻希のところに逃げ込んできて、一緒に住むようになる。しかし、そこで麻希はモラハラ的な心情を抱くようになり、世界が歪んでくる。
この物語は、最後がのっぴきならない事態になりつつも、その後どうなるか、全く隠されたままに読者は放り出されてしまう。逆に言えば、これからどうなるか、読む人が考えればよい、ということになる。
お喋りが過ぎてしまった。
同じ京都の若い女性作家として、よく知られるのが、綿矢りさである。最近私は綿矢りさの作品を再び覗いている。二人の年齢差は8歳、およそ10年の差があるが、文章の巧さ、特に女性心理の描写にかけては、うんと読ませるものを有っていると思う。私としては、しばらく住んでいた京都を舞台にするものだから、その京都を交えて描く二人の作品には、ふむふむと肯くことが多い。
ジャンルなどというものは私は問題にしないが、芥川賞受賞ということで、一応綿矢りさは純文学と人は呼ぶのだろう。二人とも、一読して内に入ってゆけるし、私が読み落としをすることが殆どない小説というのは、実はかなり稀なのであって、二人の作品はどちらも私にとり、隅々まで流れ込んでくるタイプである。しかし、綿矢りさの方は、伏線が解決してゆくのはゆくのだが、どこかもやっとした空気の中で物語が閉じられる傾向があるように見える。スッキリ大団円、というような結末をもたらさない、ということである。
それに対して武田綾乃の方は、その結末の先が問題だ、という場合もあるにしても、一つの物語が終わった、という感覚を与えるような気がする。そして、何よりも綿矢りさの場合に比べて、武田綾乃の方は、どこか倫理的な問題を孕み、それに向き合うという感じが漂うものであるように思う。綿矢りさには、倫理的な解決ということは基本的にないと思うが、武田綾乃の場合には、たとえばこの物語を題材にして、この場合どうすればよかったか、とか、ここにある倫理的な問題を論ぜよ、とかいう問いが可能になるのではないかと私は思ったのだ。文学はそういう倫理性を必ずしも問わない、というのが私の理解だったから、その点でこちらは純文学と呼ぶのは少し難しいのかもしれない、という気もする。
ともかく、本書についてだが、日常的な出来事が描かれているだけではあるのだが、読後感として、ぞっとするものだった。いかにものホラーではないし、読んだ人が恐怖を感じるということは、他の人にはないかもしれないと思う。だが、私は、背筋が震えるのを覚えた。それがどこから来るのか、それについては、私には決められない。これをお読みになった方は、そんなふうに感じることはないのだろうか。訊いてみたい。

た
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