本

『カタツムリはサーカス名人?』

ホンとの本

『カタツムリはサーカス名人?』
谷本雄治作・こぐれけんじろう絵
文溪堂
\1365
2010.7.

 子ども向けの本。虫をはじめ小動物に詳しい著者が、ストーリー仕立てに、カタツムリの生態を描いた。楽しくて分かりやすいイラストは、時に飼い方のような内容の説明にもなっている。カタツムリに詳しいお父さんのキャラクターがなかなか光っていて、それというのも著者自身が最も似た立場にいるからなのだろう。こういった方法で、科学的な営みの説明を子どもたちに伝えることができるのだ。
 ともすれば、自由研究をするにはこれとこれを用意して、こういうことをすればよい、というような、マニュアル方式が最も効率的にやり方が分かる、と考えられやすい。時間の足りない大人には、それが最も適切な方法であろう。子どもたちにはどうだろうか。私は、子どもたちの間にも、それが拡がっているような気がしていならない。つまり、要するに何を用意して何をすれば自由研究をしたことになるのか、と考えるのである。
 そもそもそんなふうでは自由研究ですらありえない、などと考える気はない。自由研究と聞くと何をしてよいか分からないのが一番の悩みであって、押しつけられてやらされるのだから、何か本に書いてあるとおりのことをやって形にすれぱ済むのだろうという発想をするのである。なんとも哀しいことだが、それほどに時間がないという子もいるのは事実だ。だが、実のところないのは時間ではなくて、自分で創意工夫するという気持ちである。自由研究を自己表現だなどとは考えるつもりもない。命じられなくても自分がやりたかったこと、やってみたいと思ったことを夏休みというゆったりとした時間の中でやれるのがうれしい、などと考える気持ちがないのである。
 はたして、できるなら自分でどうすればよいかとの方法を考えてほしい、とこの本は狙っているのだろうか。私は狙っていると思う。肝腎なところを全部は教えてしまわないで、ストーリーの中で、こういう予備知識を与えておくという感じである。それでおおまかなところと、してはいけないことの注意、また興味が出てきてこういうこともしてみたらと思った子のための配慮など、できるだけ大きく外側から包囲しておいてあげようという意図をそこに感じるのだ。少しだけ子どもから離れて見守る親、というイメージだ。
 できるなら自分でどうすればよいか考えてほしい、そのための一つのモデルケースとしてこのストーリーを味わい、それならこれもやってみよう、などと思い立つようになってほしい、という願いがこの本にはあるように感じる。
 さて、話題はカタツムリ。実は私は京都にいるとき、カタツムリを飼っていた。自分の子がカタツムリを見たことがない、というので、人に相談して探して戴いたのだ。そのときにこの本があったら、きっともっと正しく飼えただろう。あいにく狭いところに何匹も同居させたので、いじめられて死ぬというものも続出した。ただ、ほうれんそうを与えると濃い緑の、そしてニンジンだと鮮やかなオレンジ色の糞をすることにはすぐに気づいた。実に面白かった。そして、糸の上も器用に渡ることや、雌雄同体故の特殊な交尾なども知った。産卵もあったのだが、残念ながら卵は孵化しなかった。湿気が足りなかったのかもしれない。また、親が食べてしまったのかもしれない。
 そんなふうなので、私はこの本は実によく分かることばかりなのであった。やはり体験しているというのは違う。書かれてあることが、手に取るように分かる。こうした体験を味わってもらうために、この本は書かれている。子どもたちは、本でのみ知識を得る。だが、ぜひここから実際に体験してほしいと願う。実際に触ったもの、見たもの、悲しんだことや笑ったことは、自分の血となり肉となる。そのためのきっかけを、この忙しく心を滅ぼそうとしている子どもたちに、呼びかけているこの本のような試みを、もっと応援したいと思う。
 巻末に紹介してある、『どうぶつえんにいこう』という本は私も以前買って持っている。息長く出版されていることを知り、ちょっとうれしくなった。これもまた、動物について、体験ならではの知識がふんだんに盛り込まれていた。頭だけで知ったつもりになるのでなく、少しでも経験していくこと、しかしそれを大人が何もかも用意してさせるのではなく、できるだけ子どもたち自身が始めることができるように配慮すること、そうでもしないと、子どもたちの未来が、空疎なものになりかねないと心配している。大人がプログラムしたスポーツしかできないような子どもたちが、金銭絡みで取り組んでいるスポーツは、果たしてスポーツなのだろうか、というような疑問が、常々私の中にある。生き物とのふれあいもまた、そういうところである。




Takapan
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