『柏木義円研究序説』
久保千一
日本経済評論社
\3800+
1998.9.
40頁ほどの資料との「あとがき」を除けば、280頁ほどの本文。これで3800円+税というのは、私が読んだ2026年の物価からすれば、これくらいの価格は仕方ないかもしれない、と思われるが、1998年当時では、かなり割高な印象を与えたことだろう。確かに立派な装丁であるが、ネームバリューもあまりないであろう高校教諭がまとめた歴史を掘り出すような研究序説となると、果たしてだれだけ買い求められたのか、そこに少しばかり興味が湧く。
とはいえ私が本書を読もうと考えたのは、柏木義円についての本がないか、と探していたことに基づく。キリスト教関係の雑誌で、柏木義円という人物のことを、初めて少し詳しく知ったのだ。この人はすごい。信仰を貫くその勇気たるや、只事ではない。そう思い、探したのである。
しかし余計な心配をする立場ではない。知りたかった柏木義円については、ずいぶんと教えてもらった。下手に批評を仕掛けるのと違い、いわば郷土の偉人を紹介しようとする本であるから、ひたすらよいところを目の前に繰り広げてくれる。しかもきちんとした史料に基づいてのことであるから、そういう引用や、出典についても示してくれる。ただの感想文ではない。これはありがたいことである。
しかも、だ。副題が「上毛のキリスト教精神史」とある。著者自身がキリスト者であるのかどうか、それは明らかにされていないが、ここにあるのは「群馬のキリスト教関係の人物と出来事」(まえがき)である。
いろいろ教えてもらったが、本書で説かれているのは、は柏木義円だけではない。住谷天来と、斎藤寿雄とが、それぞれ柏木の3分の1程度ではあるが、紹介されている。いずれも、キリスト者である。柏木は1860年生まれ、住谷は1869年、斎藤は1847年生まれである。明治の世になるかならないくらいに生を受け、それぞれ群馬で活躍した人々である。
本書では、柏木はその国家主義教育を批判した点と、反戦思想について詳しく書かれている。そして最後は、廃娼運動である。この一つひとつの点に、他の二人一人分くらいの分量が当てられている。
住谷は聖書をベースに学んでゆくが、中耳炎を患いろう者としての生涯を送ることになる。が、牧師としての生涯を全うする。住谷は、必ずしも柏木と意見を一致させているというわけではなく、墨子の非戦主義をモットーとする。そのために逆に、孔子の儒教を批判するのである。
斎藤は、キリスト者として教会を設立するが、医師であることから医師会を創立し、また教育家として群馬の特に女子教育を推進する。また政治家として、廃娼運動を先導する。
この最後の廃娼運動については、著者は最後の40頁ほどを、それだけに費やしている。群馬県は、日本で初めて廃娼を実現した県であり、そのことを著者も誇りに思っていることがよく伝わってくる。だがそうなることについては、実に様々な困難があり、紆余曲折があったのだ。個別に柏木や斎藤などの話をする段階では紹介できなかった、その廃娼運動そのものについて、集中して語るのがその最後の章なのである。
そのとき、反対派の、いわば卑怯な手法や、県知事がそれに丸めこまれる様などが、スリル満点に語られる。こうも利権問題は煩わしく、ようやく県議会が決定しても、実行に至らないなど、とても法治国家とは思えないやりとりがねちねちと行われるものなのだ、ということに呆れてしまう。
ある意味で、そうした体質のようなものを、いまの政治も引きずっているのではないか、とも思えてくる。無理が通れば道理が引っ込む、ということだろうか。案外、現在の政治に関してもやもやとする人にとって、この章の示すところを味わうことは、無意味ではないだろう。
うやむやになりそうな経緯が続くものの、確かに群馬県は、全国に先駆けて廃娼を達成した。そて、その後この運動は全国に拡がっていった。
キリスト教についても、本書は随所で触れられており、キリスト者として本書を読むことも大いに推奨したい。そして、自分たちもきっと何かができる、というふうに思えてくるようになりたい。少なくとも、キリスト教会として社会的な視野をもち声を出しているようなところがあれば、本書は必読だと言ってよいだろうと思う。
著者は「あとがき」の中で言う。あくまでも本書は、「中間報告的なもの」であるという。しかし、「先人の残した足跡から真摯な態度で、学ぶべきものを学び、受け継ぐべきものを受け継いで行かねばならない」のである。そして、「先人の努力と犠牲の上に現在の私達が生きていることを再確認したいと思う」と述べている。

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