本

『からだのはなし』

ホンとの本

『からだのはなし』
カルロ・マリア・マルティーニ
松本紘一訳
女子パウロ会
\1200+
2010.3.

 「からだ」という概念は、その定義により如何様にも議論されうることだろう。カトリック司祭、ついには枢機卿として活躍するようになったこのイタリア人の記す「からだ」論は、なかなか深みがある。
 それはどこかアフォリズムのように綴られる。それは本人も断っている。論文や解説文はおそらくお手のもののはずである。しかし、ここは筋道立てて論じようとする意図はなく、「からだ」とは何かという問いに対して、自分なりに考えてきたこと、頭に浮かぶことを多角的に提示しようとしたというのである。だから見たところそれは、格言であり、警句であり、そして覚書なるものに等しいと自ら呼んでいる。
 それでよかったと思う。却って自由に発言できるからだ。自分の中にあるイメージではあるが、必ずしも一つの筋道でつながっていくとは限らない。まるでキャンパスに自由に色と形をぶちまけていく画家のように、一定のフィールドに、思い浮かぶ言葉を並べていくというのもいいものである。但しこれが本当に思いつきであるのなら、支離滅裂なものが散らばることとなり、読者はただ混乱するばかりである。自由である中にも、一定のつながりや、通奏低音のような響きが共通の土台を呈しているようなあり方で、読者の心に伝わっていくのである。
 従って、ここには流れというものがある。章立てからいくと、「健康と病気」「からだとは何か」「他者性と男女の性」「秘跡について」そして「からだの復活」とまとめられていく。こうして見ると、一定の意図や基盤があって、入りやすいところから次第に奥深いところへと読者を導いていこうとしていることが明白である。まずは常識的な視点での健康や病気といった悩みからからだに注目される。人ならば誰しも思い当たるようなことがあるはずである。人生はからだを伴っていくのでなければならない。しかしその背後に、あるいは目的として、主が待ちかまえているということをぽろりと漏らしもする。
 病気になり意識する、このからだ。ではからだとは何であろうか。よく言われるように、からだと霊とは異なるものなのだろうか。私たちはどうしても、霊肉二元論でものを考えたがる。なにせそれが考えやすいし、多くのことを容易に説明できるものである。しかし、恐らく聖書はそのようには考えていない。聖書を用いた西洋文明ではあったが、哲学の説明とて混ざるときに、誤解というか、混乱が生じたのは確かなようだ。「霊は息であり、からだのいのちです」と著者も強調する。確かに、まるで同じものだとは言えない。しかし、別のものではないのだ。その辺り、哲学的概念にもきちんと触れられているので、哲学について少しの関心でも寄せる人には非常に読みやすくなっている。要は、この点に、神の受肉という問題がかかっているものらしい。ことばが肉となった啓示は、霊と肉の問題のひとつの決定的な証となる。そして、それは私たちにも及ぶ。私たちが自分のからだをどのように生きるべきなのか、という問題意識が生じるのである。
 男女の性の問題は、最もデリケートな問題である。かつてはもう一刀両断に斬りつけるような説教の仕方を、カトリックならばしたことだろう。しかし、ここで読む限り、おおらかである。ただ、からだを粗末に扱ってよいものかどうか、よく考えてみましょうね、というように、軟らかく、一定の座から語っていることには違いはない。なんでもオーケーという具合に言っているわけではない。それでも、あれをするのがいけない、これならよい、といったノウハウを述べようとする気はさらさらないらしい。アダムとエバの場面を深く読み込むあたりは、なかなか聞き甲斐のある話である。そして、男女が互いに相手を尊重し、大切にあつかうという原点からは決してぶれないように話を続けていくように見える。もちろん、同性愛の問題はここでは全く触れない。それはまあ仕方がないかもしれない。ともかく、議論は次第に「純潔」という言葉を軸に展開していくようになる。平常の意味ではない。そんな俗的な意味であったら、統一協会だったグループのお得意とするところである。しかしここでの「純潔」は、信仰の純粋性に深く関わっていくこととなるのである。
 このことから結婚が頭に浮かぶが、それを含む形で、七つの秘蹟がここからどっぷりと語られる。ここはカトリックならではである。そこでは、必ずしも「からだ」を忠信に巡っているようには見えない部分もあるが、やはり秘跡のことを強く伝えたいのであるから、そこは強いありがたみは感じないが、聞いていて悪い気はしない。
 最後は、からだを説く上での究極のからだ、つまり復活のからだへと希望をもたらしていく。生き返っての復活の永遠の命、というような絵本に描くようなあり方ではなく、すでに今ここで永遠性に生きているということに気づく喜びの特権が宣言される。ここは力強い。イエスの復活が私たちの復活を保証するというようなことも、いわば当然言うべきことであろう。
 本当の最後は、マグダラのマリアが復活のイエスと出会う場面で閉じられる。マリアをイエスは名前で呼んだ。このとき真の意味で彼女は初めてイエスと出会ったのだという。それは私たちもまたマリアとして、イエスと出会うべきこと、そのとき初めて自分が何であるか、他者が何であるか、について知ることができるようになるのだ、と告げ、これを以て死に対する勝利であるとするのである。
 ただひとつの言葉「からだ」を巡って、こんなにも深い思想の旅ができる。有意義なひとときを送ることができる。しかしそれはひとときに終わらず、今ここで永遠の命を与えられていることの信仰が与えられ、それを喜ぶことでもある。瞑想のような、こうした書において、カトリックにプロテスタントはどうにも追いつかない。どうにも理論的であるか、または福音断言的となる。私たちはもっと自分の中の奥底に潜り、思索を楽しんだほうがいい。いや、楽しむというよりは、喜びに包まれる祈りの旅だ、という程度にしておこうか。




Takapan
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