本

『からだ・こころ・生命』

ホンとの本

『からだ・こころ・生命』
木村敏
講談社学術文庫2324
\600+
2015.10.

 1996年に河合文化教育研究所による「生命論」シンポジウムでの、木村敏の発表した原稿をまとめたものであり。小さな本であるが、案外こうした講演関係は、その短い時間で言いたいことを言い切ろうとするために、多少端折ることはあったにせよ、つまり厳密な議論を展開するのではないにせよ、だからこそむしろ、一読してその人の思想の要点が掴みやすいというメリットがある。これだけの薄さの中で、素人の身分としては、ちょっとした満足感は得られるのではないだろうか。
 しかしその講演内容に入る前に、実は巻末の17頁を飾る「解説」に触れておきたい。野家啓一氏によるものだが、自らこれを「ファンレター」だと言い、尊敬の思いと共に、本書の内容を紹介しているものだが、これを先に読むと、話の筋道は全部分かる。その上、野家氏自身の解釈や見解も述べられていて、これはどうもリツイートの世界ではないかとも思われるほどで、ここだけを取り出して小さなパンフレットにしても、十分魅力があるのではないかという気がしてならなかった。従って、ここを辿りながら紹介していけば、ある意味で間違いなく本書の要約となる。だが、そんなことをすると書店から苦情がくるだろう。私の仕事は、本書の魅力を伝えることだ。
 近代は、主観概念の確立と共に始まるように説明される。「私」である。西欧語では同一であっても、日本語ではそれを「主観」と「主体」と訳し分けることがある。概ね、認識の領域では前者を採用し、行為につながるものは後者を用いる。しかし西欧では同一語である。この点で、もしかするとかの地の哲学と日本人の思索者の捉え方とでは、差異があるかもしれない。それはちょうど、「法」という語が、日本語においては「法則」と「法律」と区別して訳すかのようである。聖書でも、これを同一のギリシア語で現すが故の文脈というのがある。
 この講演では、この主観と主体とを区別する見方を押さえつつ、それを「間主観性」という考え方でつなごうとしている点がある。おおまかに言うと、「私」はひとりでここにいるんじゃない、ということであり、他人から見られる自分という存在、みんなの中での自分のあり方というものが人間の「私」であるという点を忘れてはいけない、というふうに私は感じた。
 もちろん、著者はこんな単純なことを言っているのではなくと、相即といったヴァイツゼカーの概念を採用するなどして、厳密な検討をしているので、本書の説明は直にあたって戴きたい。ただ、「私」という意識が強く発生する場面だけでなく、たとえ赤ん坊であっても、意識がどうなっているか分からないような病人や障害のある人であっても、そこにその人がいるだけで価値があることへと目を開かせるものであるのではないか、というふうにも私は捉えたわけである。
 それから、acturlityとrealityとの区別も本書では大きな注目点であると言える。前者はactに関係し、行為に関わる。後者はラテン語のresに拠るから、対象的な事物の存在を現し、いわばカントの現象に属することになるだろうか。私たちは、未知のこと、認識できないことについても、前者の観点からの体験ができるのではないか。「私」は「他」との関係の中で、何か命そのものだとも言えるような、命のactualityを知る、あるいは確信することができるのではないか。聖書の言う「永遠の命」に近づくものをそこに感じるような気がしたのだが、どうだろうか。
 著者は精神医学の点から思索している。患者という現実の人格と現場で相対し、経験している。そして生と死をそこで感じ、人の心の苦しみと向き合っている。そこに、永遠の命を見ようとするのならば、まさにこれはひとつの救いへの足がかりとなるものであろう。聖書を信じ、伝える者は、こうした点で、現場の労苦をリスペクトし、またそこから学ぼうとしなければならないと強く感じた。
 どうかキリスト者もまた、こうした良い本で、自分の思い込みから抜け出ることができるようにと願いたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります