本

『関東大震災』

ホンとの本

『関東大震災』
吉村昭/文春文庫/\369+/1977.8.

 1923年9月1日、正午前に、その大地震が襲った。  本書は、その時の様子を取材し、特待の人物を以て物語とするのではなく、いったい関東でどういうことが起こっていたのか、を明らかにして叙述しようとするものである。それを経過的にではあるが、読者をその場に連れて行くかのごとくにして伝えるのである。菊池寛賞を受賞した作品だという。
 大正天皇の即位式を祝う空気の中に、大きな地震が起こったことから、話は始まる。地震は突然くると私たちは理解しているが、大きなものについては、予兆がある場合が多い。ただそれを予兆と認識できないでいるだけであって、地の内部の歪みは、何らかの兆候を見せていると捉えておきたい。
 物語は、二人の地震学者の対立を巡る展開がひとつの軸となる。東大の大森房吉教授と、助教授の今村明恒である。大森は、地震に関する功績がとくに大きく、震央を求める公式や地震計に、その名を遺した。今村は、陸軍士官学校の教官でもあったが、研究が許されていたのだという。
 大正初めの地震は頻発したために、これをどう捉えるかが、二人に問われることとなった。これは近々大きな地震が起こる前触れではないのか。今村は、研究した事柄から、何らかの警戒はしておいたほうがよいという意見を発表する。しかし大森は、その研究からしても、また、徒に世間を怯えさせてもいけないという心理もあったため、ことさらに心配する必要はなく、大きな地震が近いとする考えには反対した。只、都市防災の備えなど、人が対処しておくべきことはいくらでもあるのはどちらも考えてはいたものの、この二人の考えの違いは、世間でも注目されていたことだろう。
 だが、その後10年もたたぬ中で、関東大震災が発生する。
 ここからは、地震の直接的な被害を描くとともに、人間の変化を大きく取り上げる。かなり残酷な描写もあるので、読むときにはそれなりの心づもりで読んで戴きたい。もちろん節度は保たれているものの、かといってごまかすようにぼかすようなことはしていない。
 読んでいくにつれ、この描写は、人の心のほうに焦点が当てられていく。
 本書のあとがきは、1973年。阪神淡路大震災の20年以上前である。神戸を中心に襲ったあの地震は、私も京都で経験している。現場に、関係教会の牧師たちも出向いており、阪神地域の教会の牧師たちは、殆どその場で暮らしているようなものであった。そのレポートも、ひとつの本となって明らかにされるなど、現場の状況がよく伝えられている。もちろん報道も多く、まだそのときにはラジオ放送すらなかった大正時代とは訳が違う。
 阪神淡路大震災では、災害時によく諸外国から伝えられる、略奪や暴力などが、殆ど伝えられていない。皆無ではないが、むしろそれは恥ずべきこととして伝えられ、助け合おうという空気が漂うばかりだった。安全がこんなに大切だとは、と人々が漏らし、何が大切であるかに気づいた、というような声も聞かれた。このことは、その後の東日本大震災においても、同様であった。むしろ、阪神淡路大震災の経験が活かされて、不十分ながらも、それなりの対応が各方面で見られたのではないだろうか。
 ところが、この関東大震災においては、そのような甘い感覚が全くぶっ飛んでしまうようなことが起こり続けている。無理もない。その後軍政のような時期になっていくとき、天誅と称して暗殺がまかり通り、また社会主義者に対する残虐を極めた殺害が続くのである。現に本書でも、大杉栄らの殺害について、かなり長く報告されている。警察や裁判でのやりとりまでが、手に取るようにここに晒されているのである。
 そうした時代である。人心が穏やかであるとはとても言えなかった。興味深いのは、自警団が自在に暴力を揮っていたことで、これが穏やかな時代には「マスク警察」程度になり、少し怒鳴っただけで「まあひどい」というような報道になってしまう。ところが関東大震災後、朝鮮人だろう、社会主義者だろう、と因縁をつけられては次々と人が殺されていったのである。
 この朝鮮人のことは、それなりに多くの人が聞き知っているだろうし、胸を痛めているだろうと思う。だが、実情はそれ以上であった。あろうことか、何の根拠もなく、幾多の日本人も、朝鮮人呼ばわりされては殺害されているのである。
 そもそも、朝鮮人が悪いことをしている、というデマが、勝手な憶測だけで飛び交ったことに基づいて、反感が広がっていき、暴力的になっていっている。デマが恐ろしいということは、情報が広がりやすい今のSNSの時代では、別の意味で力をもつことになるかもしれない。それを取り消すのも、速い動きでできるかもしれないが、拡散するのは格段に早い。いじめや誹謗中傷の点でそれはいけないという建前になっているが、発現している者は、自分がそれをしているという意識がなく、無邪気に言葉の暴力を繰り返しているのである。関東大震災のときの凶暴な振る舞いは、情報環境がどうであれ、人間の本性に基づいているとするならば、今でも非常に恐ろしい爆弾として潜んでいると見ておいたほうがよいのではないだろうか。
 本書は、その後半をすべて、この問題に使っている。著者は、これが言いたかったのだろうと、読んだ誰もが思うほどである。そして、それは「あとがき」ではっきりする。著者の両親が、この関東大震災を経験し、その体験談をずっと聞かされていたのである。もちろん、実際の取材と、多くの資料を用いてのことであるから、特定の人の経験だけですべてのことを想像しているというわけではない。
 ここには、人間の罪の姿がある。それは、私たちの誰もが、そうなる可能性を秘めているものである。そんなことがあるものか、と否定する人こそが、一番危険であるということは、聖書を知る人にとっては常識であろう。いや、聖書を体験していない、自称キリスト教徒であれば、また却って厄介であると言える。このような、人間性を突きつけてくれる事件記録のような作品は、書かれて半世紀過ぎたとしても、何ら価値を失っていないばかりか、いっそう必要としていると私は信じるものである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります