本

『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』

ホンとの本

『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』
万城目学
角川文庫
\476+
2013.1.

 国語の授業で、テキストにあった。文が歯切れ良く、飄々としている魅力もあって、物語全体を読んでみたいと思った。かのこちゃんという、小学校一年生の女の子が登場する。それが、飾らない、子どもの世界をよく表しているように思えた。巻末の「解説」を見て知ったことだが、小学校に協力してもらって、取材をしているという。なるほど、それで生き生きと子どもたちの姿が描かれているわけだ。
 他方、マドレーヌ夫人というのは、アカトラの猫である。猫たちの世界の交流が、こちらはもちろん取材というよりは観察に基づくのであろうし、想像して描いているに違いないのだが、これまた生き生きと描かれている。ただ、こちらはぐっと人間寄りである。マドレーヌ夫人は、大雨の日、その犬小屋に隠れていた。その主は、玄三郎という老いた柴犬。玄三郎はそのアカトラ猫をかくまい、共に済むようになる。この玄三郎こそ、かのこちゃんの家の犬なのであった。
 猫の世界の出来事が、果たしてどこまで現実であるのか、ちょっと分かりにくくなることがあるが、ふと人間と入れ替わるという事件が起こり、マドレーヌ夫人は、人間の姿でかのこちゃんと交わることもあった。
 物語は、あらすじや結末をご紹介することができないと考えている。はちゃめちゃなかのこちゃんは、転校生のすずちゃんと親友になり、しかし寂しいことにもなるのであるが、それとマドレーヌ夫人との関わりについては、どうぞ物語を楽しんで戴きたい。
 テンポがいいし、表現も抵抗なく楽しめる。話は落ち着くところに落ち着いているようでもあるが、何か収まりが悪いような感覚もしていた。どうしてだか、私の感覚がおかしいからなのかもしれないが、なんだか居心地が悪い。私があまりにも、万事説明のつく展開を期待していたのだろうか。いわゆる「回収」がきちんとなされていて、隅から隅までパズルがきちっとはまるような読後感を求めてしまっているのだろうか。
 村上春樹も、小川洋子もそうだが、物語は決して伏線が「回収」されないままに終わる。どこか流れに任せて話が進み、計算されない偶然の中で終わる。引っかかっていたことの解決は、その後読者が心の中ですればいい、とでもいうように。村上春樹の場合は、タイトルを思いついたら後はそこから文字が出て行くばかりであり、自分の作品を読み返すこともないというし、小川洋子の場合は、要約できるような物語であれば書く意味がないともいう。それが、近年の世界的な傾向なのかもしれない。この二人が海外で最も読まれている日本の作家であるというところが、何かを教えてくれているような気もする。たとえば、現実は計算された摂理の中にあるのではないし、人生はパズルではない、などというように。だからこの二人の物語は現実離れしているものが多いにも拘わらず、逆にリアリティを伝えていくことになるのかもしれない。
 それに比べると、この物語は、かなり「回収」されている部類である。だから、現実にこんなことがあったら、いかにもつくりものの物語でしかないというふうに取られることだろう。猫と人とが入れ替わるとか、猫同士の社会がこのようにあるとか、突拍子もないことを混ぜているのは、あらゆる現実を破棄したからでもあり、だからまたそれなりに話がまとまっていくことを許しているということなのかもしれない。
 ステキだと思うのは、かのこちゃんが、終始あっけらかんとして、子どもらしく存在していることだ。感情の波はもちろんある。だが、特別に人生を悟ったり、決定的な成長をしたりするわけでもない。飄々と過ごし、それでいて確かに何らかの成長はあることを伝えるけれども、ここにあるのは子どもの、ありきたりの日常でしかないのだ。その中に、非現実的なファンタジーが混じる。
 思うに、子どもの日常とは、このような平凡さと非現実との共存するあり方をしているのではないだろうか。大人がどのように見ようと、子どもは子どもであり、大人にはもう見えなくなった世界に生きている。それは、もしかすると作者自身も、気づいていないかもしれない。かのこちゃんにあるリアリティは、マドレーヌ夫人にはない。猫の生態をそれなりに描くことはあるが、付け足しのようでもある。ただ、視点をかのこちゃんからずらすことによって、かのこちゃんの一人称にならず、子どもを外からも見つめる視点を設けることで、読者は時に大人の目で様子を見、時に子どもの眼差しで様子を見ることが許されているのだろうか、とふと思うのであった。




Takapan
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