本

『私はかんもくガール』

ホンとの本

『私はかんもくガール』
らせんゆむ
合同出版
\1300+
2015.2.

 緘黙。意味を想像できない言葉ではないと思ったが、特定の場面において喋ることができなくなる、という細かな規定については知らなかった。
 教室で、声を出さない子というのがいる。学習ができないというわけではない。ただ、その子の声を聞いたことがない、というものだ。
 漫画の著者は、自分がその症状であることを、後まで知らなかった。自分の個性だとして捉えていたものが、実のところ症状であるというふうに認識したときの驚きは想像に難くない。本書では「場面緘黙症」だとしている。自分の症状についてのカミングアウトというわけだが、そのためには、解説として名を連ねている「かんもくネット」の存在がある。そうした弱さを抱える人たちが組織を作っているのである。
 美術大学卒業の自分が、どういう子ども時代を送っていたか、それを赤裸々に語る。家庭の問題から始まるが、それが原因と定められるものでもないようだ。そうした部分については、時折コラムとして、専門家の解説が入っているから、たんに面白おかしく描いているというだけではないし、ウケのためにフィクションを重ねているということでもないらしい。
 それにしても、よくぞこれだけ自己分析ができるものだ。自分の考え方を突き放して描くという客観視は、そう簡単にできるものではない。自分の考えについての観察も、不自然なことにならず展開されているし、このあたりも、医師との相談の中で、描き方を盛り上げていっているのかもしれない。
 原因を探ることに終始しない。ただ、喋ることができないということについて、一定の理解が欲しい。この筆者の場合には、家族の関係から描き出しているが、それだから語れなくなる、というふうな単純なものでもない。また、原因が分かれば解決するということもない。個性は作られてきた。そのように形成されてきた個人というものが、簡単に変わるということを期待するのは難しい。当然、周りの人の理解、社会の理解というものが必要になる。ところが、身近にそのような人がいない場合、なによりもそのような症状、自分ではどうにもならない状況にいる人がいるという事実を知らない場合、これはつきあいにくい奴だ、変な奴だ、というふうに本人を非難してしまうことが通例である。そうなったのは自己責任だ、という具合である。
 私たちは、えてしてそのように生活している。それが一種の病気である、と認められることは、大きな意味があることなのだ。
 そういうことで、ここに「緘黙」ということが、本人のせいだともいえず、また本人ではどうにもならないことであるとして、紹介された。漫画というのがいい。気軽に読める。その意味でも、この試みはきっと役立つことであると思う。現に、ここにひとり、なるほどと思い、考え直した人間がある。子どもの中に、たしかにいるのだ。ずっと受け持っているが、この子の声を聞いたことがない、というタイプの子。それも、学習のよくできる子の中にもあたりまえのようにいる。確かに、何かと自己主張をしたり、自分の思ったことをすべて言わないと気が済まないような子もいる。頭に浮かんだすべてを明らかにするようなタイプもいる。授業として、それはもちろん抑えなければならないのだが、時にその指摘が授業を活気づけ、適切な振興や鋭い着眼点をもたらすということもあるので、いわば適宜利用するというのが授業のやり方である。画一的にこれを抑え込むように、公的な教育ならば心がけるものなのかもしれないが、私的教育では必ずしもそうではない。そんな中で、ただおとなしいだけ、という子ではなく、確かに人の前では決して声を発しないタイプの子がいるというのも、言われてみれば肯けるのである。
 ただ、この漫画の作者は、恵まれたうちではあると思う。これだけ自分のことを分析できる冷静さがあるとともに、人生の上でも、失敗を笑い飛ばすのは勇気があったとは思うが、それなりに乗り越えて歩んでいる。そして、ある意味で幸福な生活を送っている。中には、このようにうまくいかないで悩んでいる方もいることだろう。ひとつの例ではあっても、多くの人がうまいことやっている、と言うことはできない。私たちの近くの人の中で、そのような人がいるのかしら、と思うことも必要であろう。
 かといって、決めつけてはならない。きっとこの人は緘黙なのだ、と思い込むことが適切であるとも思えない。病名を、素人が判断することはできない。それが、この手の精神的な問題を抱える実例ルポの及ぼす、唯一の弊害であるかもしれない。
 この本は、専門家の解説が随所に掲載されている。読者は、面白い漫画のみならず、この専門的な部分を十分に読むようにしたい。また、そのコーナーを本当は読んでもらいたいために、漫画があるのだ、というくらいのつもりで接してみるとよいのではないかと思う。ひとつの勇気ある発言を、私たちは大切にすることができるだろうか。




Takapan
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