本

『カンガルー日和』

ホンとの本

『カンガルー日和』
村上春樹
講談社文庫
\448+
1986.10.

 村上春樹の短編集を手にしてみた。例によって佐々木マキの絵が飾っており、飄々とした漢字が村上ワールドを演出している。
 ここにある18のショート・ストーリーズの一つひとつを取り上げていくわけにはゆかないので、まずは冒頭の、タイトルにもなった「カンガルー日和」。僕と彼女だけが、動物園のカンガルーの柵の前にいる。赤ん坊が産まれたのだと聞いたとき、それを見たかったが、雨だのなんだので一カ月が過ぎた。ようやく今、もはや赤ん坊ではないカンガルーを二人で見ることになる。カンガルーは母親のお腹の袋の中に隠れるのだろうが、そうしたことについても二人で他愛もなく議論を続ける。僕たちはものを食べ、ひとときに満足し、その場を去っていく。
 描かれているのはそれだけだ。だから何、と言われても仕方がない。このワンシーンに、彼の他の作品にも流れる空気が漂っていることはファンならすぐに分かることだろう。一つの完成した作品であるというよりも、ワールドを彩る絵の具のひとつであっていい。
 続く「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」は面白い。というより、これはどこかで読んだことがある。たぶん、国語の問題で見たのだと思う。だがもしそうなら、どんな設問が作れるというのだろう。不思議だ。記憶違いかもしれない。それに、オトナな部分を中学生の問題に出せるはずがない。話の中にもう一つの話が控えている。そのパラレルな営みに、つながりをもたせようとしているのであるが、さて、本当にそれらは比較の対象となるのであろうか。「100パーセントの女の子」という意表を突いた表現、誰にでもできそうで、誰にも書けない言い回しだと思う。ストレートにぶつけてくるその球を、私たちはさしあたり見逃すしかないのだ。
 結婚式の披露宴の席でとにかく眠くて仕方がないという、なさそうでありそうな情景をオシャレな会話でかたどった「眠い」や、羊男やかえるくんに匹敵するかもしれないような「あしか祭り」、自分をどう捉えるかについてちょっと哲学的な考えを巡らせたくなる「鏡」、こうして紹介してみようかと思うと、どの短編にも何かしら不思議な魅力があることがまざまざと思い出されてくる。何故だか分からないが、心にわずかばかりの疵痕を残して通りすぎていった短い文章であるのだ。
 例外は、他の短編が雑誌に毎月ひとつずつ掲載されたとすると、半年かけて連載された作品である「図書館奇譚」であろう。これは50頁ほどあり、読み応えがある。あまりやる気がないままに図書館に来た僕は、なんとなく尋ねた本は地下にあると案内されて、目指す107という部屋まで来るのだが、謎の老人に強要されて入れられた閲覧室に閉じ込められてしまう。そこにいた羊男と出会い、これまた謎の美少女が現れたことで、そこを脱出しようと計画を立てるが、さて……。
 この物語はちっちゃな冒険活劇である。奇想天外でもあり、何か実際自分も図書館に行けばそういう目に遭うかもしれないという妙な現実感をも呼び寄せもする、やはり魅力溢れる作品であると思う。ただ、私はこういう作品であっても、科学的に明らかな矛盾があるとひっかかってしまうタイプである。映画でも、美しい虹が空に浮かぶシーンで感動的だったはずなのに、地面に映る影の方向と虹の出ている方向とが矛盾しているのを見て、気持ちがそこに囚われてしまったことがある。この作品でも、クライマックスだからその種をばらしはしないが、新月に脱走を決行しようとするとき、前日の月が描写されている。この新月というモチーフや、前日の月の姿は、情景を描くのに重要なものであったらしく、丁寧に繰り返し言及されている。だからこそ、私はひっかかってしまったのだ。夕食も済み、その後会話が続き、本もだいぶ読んだ後、夜空には「剃刀のような細い月」が浮かんでいた、とあった。さらにその月の光が美少女の体に光を投げかけていたなどともいう。そして美少女が「とてもよい月です」と言う。「明日は新月です」とも。残念ながら、新月の前日の細い月は、夜には見られない。印象的にこの月を描いている場面ではあるが、月齢についてひととおりの知識がある人ならば、これは頭が混乱してしまうような月の描写となってしまっているのだ。もちろん、虚構だからいいじゃないかと言われたらそれまでだし、村上春樹のパラレルワールドなのだから時間が逆行しているんだ、と言われたら私は野暮なことを言っているだけなのかもしれないが、それにしても逆行していたとしても、細い月は日没後そう長くない間に地平線の下へ消えてしまう。いや、もし月が西から出て東に沈むのであれば、これはありうることなのか。でもそんな描写やそのことのヒントは、なかったと思うのだが。ああ、無粋なことを気にしてしまった。




Takapan
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