本

『考えないヒト』

ホンとの本

『考えないヒト』
正高信男
中公新書1805
\735
2005.7

 同じ中公新書の前作『ケータイを持ったサル』が物議を醸した。たしかにそうだという声が挙がる一方、馬鹿馬鹿しいと相手にしない人々もいた。これだけケータイが蔓延すれば、むやみにケータイを非難するような言動は、それだけで総スカンをくうようなこともあるだろう。
 前作では、母性といった問題に焦点を当てての文明批評であったが、今回は、退化という観点を取り入れている。サブタイトルも「ケータイ依存で退化した日本人」というものだ。
 個人的には、いくつかの共感を覚えた。
 私がよく口にする、「心の闇」というコメントは止めにしないか、という点を、この本では別の観点から説いていた。誰もが軽く用いる「心の闇」という言葉を真っ向から批判する文章には、私はあまり出会ったことがなかった。
 信仰共同体に文化性を高く認めるような発言があった。イスラム文化には、本来の文化的な特徴が多々あるという指摘である。アメリカは表向きはキリスト教となっているが、共同体意識を欠いており、混迷の中にあるような指摘であった。価値の多様化は、文化的崩壊である、と。私は個人的に、アメリカのハリケーン被害の中に、すでにそのようなものを明らかにしていたところだったので、これにも肯いた。
 さらに、このとき、文化というものについて、「文化的な生活とは、ともに生活する者が互いに何か「尊い」と敬うものを共有しながら、日々を送るようなことを指すのだろう」(129頁)と説明している点に、はっとさせられた。
 この発言が軽くない証拠に、本の末尾のまとめにおいて、再びこれが取り上げられていることを挙げよう。
 サルの生態の研究者が、人間の文明について発言するというのであるが、その専門性をよく活かし、そして私たちの社会の問題を考えるという、よい企画である。学問研究をこうした形で紹介してくれると、社会一般の私たちも、ありがたい、と思う。
 ケータイがどうとかいうこと以前に、まずそんなふうに感じた。
 そして私自身、このようなケータイに、不愉快な感覚と先行きの不安を覚えている。著者に提言するならば、ケータイに依存している人間が、今自分が立っているその場所にいないような錯覚に包まれていること、つまり、「いま、ここ」という感覚を喪失して、足場を亡くしているという点をさらに告げていくことができないだろうか。これは、退化と呼んでよいのか分からない。立っている場所を失うことは、しかもそのことに気づいていないということは、退化というより、かなり危険な状態ではないか、と感じるからである。




Takapan
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