本

『悲しみの秘義』

ホンとの本

『悲しみの秘義』
若松英輔
文春文庫
\730+
2019.12.

 2015年に出版された単行本、文庫化したことでようやく手に取ることになった。評判の本であることは、著者のツイートなどを通じても伝わってきていた。また、Eテレの「100分de名著」の解説者として数度登場し、その誠実な語り方や内容、そして何よりも番組の終わりで机に額がつくほどに最敬礼する姿に、ほかの人とは違うものを感じていた。批評家の部類なのだろうが、詩についても深く関わっており、また何よりもカトリック信仰があるために、聖書の理解を踏まえた上での活動であるため、共鳴できるところも多かった。その番組では、内村鑑三や石牟礼道子を説き、直近では西田幾多郎をも担当していた。いずれも肉親や身近な人の死を以てその思想が変えられ深められた方々である。それで、本書の「悲しみ」も、いかにも著者らしいテーマであるといえるし、まるで詩のように流れる本書のエッセイ的叙述は、読む者の心に迫るものがあって当然であった。
 新聞に連載された26の語りがここにある。一頁の中の余白が大きい。つまり文字数の情報としては少ない。だが、この余白にたっぷりとこめられた情感と誠意とがあり、またそこに読者が自身の悲しみを流し込むことができるようにさえ思えて、相応しいと感じた。
 古語では「かなしみ」は、「悲しみ」とも表すと共に、「愛しみ」でもあることは知っていた。慈しむような思いが含まれているのかもしれない。それを筆者はさらに「美しみ」にまで止揚する。人生に悲しいことは多々あるが、それは愛すること、また愛されることに基盤をもつ。また、そこに美しさを感じる心を人間は有することができるはずだ。誰かのせいにしたり、責任を問うたりすることも社会的には大切なことだろうが、どのように怒りをぶつけても、たとえ金銭を得たとしても、喪ったものは帰らない。悲しみそのものがなくなるわけではない。だったらそれとどうやって付き合うのか。悲しみの特質とは何か。それを、人生のいろいろな場面から切り取って、スクラップブックに貼り付けていくように、読者は本書を読む体験を重ねていくことになるのだろう。
 読者がその文章を読んで体験をしいくことで、書いた文章は命をもつ。書かれた段階で書く作業は終わっているのではないし、筆者の思いがそこに留まっているわけでもない。読まれることで新しい道が始まるし、命が続く。思えば、聖書がキリストを「言」という語で表現していたのも、ひとつにはこれがあるだろうと思う。
 しかし、本書はキリスト教を説こうとするものではない。それどころか、聖書の言葉や思想すら基本的に見られない。ひたすら誠実に、著者が人生を問う、そのことの繰り返しである。あるいは、いろいろな人物の経験を紹介し、悲しみを乗り越える旅へ同行してもらいたいという心を読者に伝える。
 なかなかこの思いは、若いころには養えないものである。著者ははじめにそのことにも触れている。そのときに、祈るということについて短く触れてある。ここだけは、キリスト者に直接訴えているようにも思える。「祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。」この何者かからの声を聞くには、自分の心の声を聞くことも必要だという。昔は、このように自らに沈潜することで真理の光を見出そうとする赴きがあった。しかしそれを復興するというのではなく、言葉にならないような思いを、さしあたり悲しみと呼んで、それと付き合っていこうと私を誘ってくれているようにも思えてきた。
 解説の俵万智さんも記していたが、このように喪失の中にある人々に共感できる著者の秘密は、本編の中のある章を読んだところで、私も目が開かれた。人生の中では、必ず、立ち止まらなければならない時がくる。悲しみの時だ。その際、本当に大切なことは何であろうか、という問いを自分に投げかけることがあるだろう。また、そのように立ち止まった経験があり、それを日常では忘れていこうと心に決めている人でも、一日のうちどこかでまた立ち止まっていかなければならないと思うなら、本書は幾度でも読み直し、その都度味わいを深めていくことができるだろうと思う。そうして、秘められた意味が、またひとつ新たに見出されていくものであろう。




Takapan
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