本

『「哀しみ」を語りつぐ日本人』

ホンとの本

『「哀しみ」を語りつぐ日本人』
齋藤孝・山折哲雄
PHP研究所
\1,300
2003.8

 日本的感情が衰退していることを指摘し、それを取り戻すためにはどうしたらよいかについての対談である。
 著者は、それを「対論」と呼んでいるが、とにかく対談形式のものは、その場の雰囲気というものもあり、居合わせた者は楽しく読めるだろうが、活字にして第三者が読んだ場合、ライヴ感のない大多数の読者にとっては、疎外感のようなものを味わいがちである。が、この本はそういうことがない。最初から最後まで楽しめる。それはもしかすると、私が共通の問題意識をもっているからかもしれない。
 子どもたちからなくなっていくように思われるものは、学力に限らない。感情もなのである。子どもたちが無表情になっていく。また、身体の名称を知らず、身体で共有する感覚を体験できないままに育っていく。「腸が捩れる」というのは言葉としては誤用である(正しくは「腹の皮が捩れる」)が、二人はこの本の中で、この言葉が、笑うときにも辛いときにも使える言葉だとうなずき合う。だが、今の子どもたちにそういった感覚がないという。言葉も死語となるが、同時に身体感覚も死んでいくらしいのである。
 蹲踞ができないから腰の力も弱い。電車の中で立っていることさえできず、床に座るとなると、もう体力の崩壊のようなもの。そうした現状を嘆きつつ、国語の学習からも、声に出して言葉のリズムを体感し、感情を取り戻すことが可能なのだという方向に進んでいく。
 齋藤孝は、明治大学の若い教授で、『声に出して読みたい日本語』の本の著者。よく売れたので覗いてみた方もいらっしゃるだろう。山折哲雄はベテランの学者で、印度哲学を専門としながら、日本文化を研究している。接点がどうあったのかは寡聞にして知らないが、目指すところは見事に一致しており、その意味では、けっして対論ではなく、共論とでもいうべきものとなっている。
 なんとなく理解していたことでも、造詣の深い二人の話から整理されて説明されると、納得してしまうことが多い。「哀しみ」と「悲しみ」の違いも、感覚で使い分けていたが、本の中で、論の注釈として記された次の説明はなるほどと思った。「哀」は「口」+「衣」から、思いを胸の中におさえ、口を隠してむせぶことをいうのだそうだ。それに対して「悲」は、「非」+「心」であり、「非」は羽根が左右反対に開いた様子を表す象形文字であるゆえ、心が調和を失って裂けることを意味するのだという。
 哀しみは、学習しなければ理解できないという。想像力の欠如ともいえる悲しい少年犯罪の発生にも、これが無関係ではないと指摘する。それは、個人的な問題ばかりでなく、社会としてのあり方と、その社会に身を置く一人一人のおとなが問われている。
 まさに身体的に、触れるかのように理解できるこうした本は、貴重である。




Takapan
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