本

『かもめ・ワーニャ伯父さん』

ホンとの本

『かもめ・ワーニャ伯父さん』
チェーホフ
神西清訳
新潮文庫
\400+
1967.9.

 チェーホフの「かもめ」は、あるマンガの演劇部のシーンで出てきたことを覚えている。気になっていた。なんだかんだと何十年も経ったいま、ついに読む機会を得た。
 チェーホフ自身の悲恋を反映しているということを、解説から知ったが、誰かが誰かを好きになる、その思いのすれ違いやままならぬ気持のずれなどが、全編を覆っていたように思えた。女優志望の若いニーナを思う作家志望のトレープレフが、撃ち落としたかもめを与えるシーンがあるが、ここがタイトルの「かもめ」とは何かを考えさせる発端となる。ニーナを失ったトレープレフは、見るからに心を病む。その後ニーナは別の男と結婚するが、男に捨てられ、生まれた子も喪う。女優としてもうまくいっていない。茫然自失のニーナが「わたしはかもめ」と繰り返し、耐え忍ぶだけだと言いのこして去っていく。そのときに、「おのれの十字架を負う」という聖書の言葉を重ねて、忍耐を噛みしめるのが、また切ない。
 特別な事件が起きるわけではない。そして誰も喜ぶことがない。人を好きになるということが、悲しみしか生み出さないかのような悲壮感漂う物語となっていくが、きっと舞台だと、文字にする以上の迫力があるのだろう。ギリシア悲劇とはコンセプトも雰囲気も異なるだろうが、人生の悲哀を、ひたすら個人の感情の中で体験していくようなところがあるのだろうか。こうした戯曲を見ると、舞台というのも一度見てみたいものだと思わされる。
 ところで、子どものころによく言い合っていたのが、「わたしはカモメ」というフレーズ。ここから来ていたのかと改めて知るが、そう、ウルトラQに登場するM1号が「わたしはカモメ」と繰り返しつつ、宇宙を彷徨うのだ。女性初の宇宙飛行士であるワレンチナ・テレシコワのコールサインであったが故に、宇宙から地球に向けて語られた最初の言葉がこれであったわけだが、なんともこの戯曲と重ね合わせると、何か考えてみたくなる気がするものである。
 もうひとつ、「ワーニャ伯父さん」は、「三人姉妹」「桜の園」と併せてチェーホフの代表作のひとつであるという。解説によると、「森の精」という戯曲の改作であるといい、当初の悲劇的な結末がいくらか救われていることになるのだが、それでも絶望的な中で忍耐しながら生きていくという結末から、やはり見ていて決してすっきりするものではない。
 妻を亡くしたセレブリャコーフは退職した大学教授。その妻はなんと27歳の若いエレーナ。ここに複雑な家族構成が関わってくるのだが、題にあるワーニャ伯父さんというのは、彼の先妻の母の息子である。先妻の娘のソーニャが思う男にエレーナがとりもとうとするが、逆にエレーナがその男に見込まれる。ワーニャ伯父さんは、自分の人生を捧げるような形で領地の経営のために尽力してきたが、かつてエレーナに思いを寄せていたことがずっと尾を引いている。そしてその領地についてセレブリャコーフが処分するつもりだなどと言いはじめたのを聞いて、自暴自棄になる。
 それにしても、ロシアの文学というのは、全部とは言わないが、なんとこの極寒に耐えるような思いの重たい空気に包まれていることだろう。人生は忍耐しかないのだろうか。それで自殺でもするのでなければ、暗く重いものを抱えたままでたどたどしく歩いていくしかないのだろうか。チェーホフの戯曲が人気だということは、こうした些細な日常的な展開の中に、人生を感じるということなのかもしれない。お国柄と片付けるのはつまらないが、これも舞台で見たら、また印象が変わるような気もする。となると、演出家の解釈が、新たな時代のチェーホフを映し出してくれるに違いない。演劇に夢中になる人がいるというのも、少し分かるように思えた。




Takapan
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