本

『神さまたちの由来』

ホンとの本

『神さまたちの由来』
木村紀子
集英社新書1298D
\920+
2026.2.

 副題に、「日本「多神信心」のみなもと」と書かれている。日本の「カミ」についての説明であるということだったが、私の期待したものとは大分違った。
 もっと、「カミ」という概念について、史料を通じて検討するのかと思ったが、そういう方向へは走らなかった。語源的な要素も、説明の中に取り入れられていたが、あまり深い議論を示すこともなく、いとも軽く、さらりと述べ、しかもその割には、よく分からないというふうな書き方が目立った。
 帯にも書いてあるとおり、「この国の神・人関係の原景」を、様々な史料を通して探るものではあった。
 もちろん、内容が面白くないわけではない。最初に「ナル神」と「ウム神」との対比があって、古事記の中で二つのタイプが見られることが例示されていた。「なる」ということは、日本的精神の根本に関わることだと私は理解している。好意を「する」ことよりも、自発というニュアンスで「なる」ことが、日本思想や日本的信条を支えるベースにあるのだろう、と。だが、そうした方向に著者は関心がないようであった。「ナル神」というのは、現れることを謂う。「ウム神」はある時点からこの世に在り始めるもので、以後隠れることがない、と説明されている。しかしその論ずる中では、「なる」神、「うむ」神とひらがな表記になっており、章題のカタカナとはどう違うのか、よく分からなかった。みた、途中から、アマテラスから人身神の叙述となり、結局「成れる」現象と「生める」行為とは、神事においてはすでに一体的だということのようだ、とまとめられ、なんだか煙に巻かれたような気持ちになった。
 カミがヒトになること。ヒトがカミになること。これが日本思想の中で、西洋思想と比較して目立つところの一つである。ここで大国主神から始まり、とにかくたくさんの史料の引用が紹介される。一つひとつが古文の読解である。もちろん引用の後に、粗筋やポイントは説明されるのであるが、この古文を丁寧に読んでゆく気力は、関心の強い読者のほかは、ゆっくりしていられない。少なくとも私はそうであった。書き手の方は、思い入れが強いから、丁寧に史料を見せ、その史料には味わうべきところが多々あることを熟知しているから、できるだけ詳しく原典を見せるのが親切だと思うのだろうが、一部の読者には、原文は辛いのである。
 たぶん本筋とは関係がないところで、私の気を惹いたものがある。最近日本でも、人が死んだら天国に行くという表現をとるが、それについてこんなことを記している。「日本語の「天国」とは、別に全能の神や羽の生えた天使がいるイメージはなく、むしろ、古代の「天」の曖昧さに通じるような、この世の人ではなくなった個人の在所を、漠然と指すだけのもののようである。かつてのヨミの国同様、「天国」もまた、あえて詳しく語られる対象ではなさそうである。」(p89) たぶん誰も、羽の生えた天使のことは考えていないと思うが、しっかり著者も、日本人のイメージに染められていることがよく分かる。
 また、「カミとは何だったか」という点ではっきり書かれてあることには、動物たちが結ばれた相手の正体だという話があって、魚・亀・蛇・狐は、「日ごろ人の生活圏と交わりながら実在して活動し、様々の人を超える計り知れない能力や生態を持っていることで、カミともされ」(p96)ることがある、という説明があった。
 しかし、本格的に「カミ」という語については、次の説明が目立つ。「「カ(香)をカ(嗅)ぐ」「ケ(気)はひ」「キ(聞)く」といったカ行の語がみな、目には見えないが存在を感じ取れるものやことに関わってもいるように、カミの「カ」も、姿は見えなくても何となく感じ取られることを言い、「ミ」は、身に通じるその本体を指すというあたりではないだろうか。」(p145)
 時折、言葉の謂われが説明されるのも面白い。「ヤシロ」や「ミヤ」、あるいは「ヤホヨロヅ」とか「たのむ」とかいった言葉の由来が説き明かされているのは、へえ、と思った。
 最後の方では、いよいよ「多神信心」が章題に含まれてくるが、外来思想としての「仏教」と日本の神の道とが出会うなかでの変容のようなことに触れられてくる。そうである。仏教は完全に外来思想なのである。外国の神なのである。そこで政策的にだが受容されるに至るときに、神の思想の側にも変容が見られることになる。それは、キリスト教が流れてきたときにも、似たことがあったかもしれない。もちろん、同じようであるとは言えないが、キリスト教にしても、ある程度イメージ的にでもいまの日本文化の中に知られていることには違いない。
 その後、次第に仏教についての説明に浸るようになり、「ホトケ」や「地蔵」なども興味深く語られる。その辺りは、こんなふうにも書かれている。{「平安期の貴賤僧俗上下」は、「ひたすら現世での救済を頼む「観音」、地獄からの救済を願う「地蔵」、あるいは病を癒やしてくれる「薬師」、そして、命終の際には「来迎」して、極楽へ「引接」してくれる「阿弥陀仏」というように、いわばヤホヨロヅの有り難いホトケに与ることができると説く仏教に、古来の神々にまして熱い関心を寄せていたのだった。」(p183)
 そして、「人と神・仏とのなんとも適当な関係性が、平安中期の京の信心だったということだろうか」(p188)というように、いろいろなエピソードを披露してくれる。また、「「まかす」と「たのむ」が、ほぼ同義のように、「信心」という心情を表わす言葉として使われている」(p218)とも記しているのを見たが、これなど、聖書や賛美歌の歌詞の言葉としても、なかなか興味深いものであった。
 殊更に一つの主張をしよう、というような感じは受けなかった。いろいろな史料を引っ張ってきて、これはこうだ、あれはああだ、と観光案内をしてくれているように感じた。いろいろな蘊蓄を聞き続けたような気がして、もうひとつ筋道が整っている、あるいは心に刺さった、というような感想はもてなかった。だから、あのことはどこで触れられていたか、ということが思い出しにくい。こういう場合は、「索引」があると親切というものだ。一度きりの講演会を楽しんだ、という印象はもてても、ここから何かに役立てようとするには酷であった。せっかくの史料なのに、索引がないのは残念であった。




Takapan
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