本

『神という謎[第二版]』

ホンとの本

『神という謎[第二版]』
上枝美典
世界思想社
\2000+
2007.4.

 雑誌「福音と世界」の文章の著者に関心をもった。その著書があるというので、手に入れた。かなり論理分析の色の濃いものであった。著者は、いわゆるキリスト教徒ではない。だが、神の問題に魅せられている。こうした方は時折見られる。私は案外多いのではないか、とも思う。神の問題を真摯に考えることから、どこかで神と自らとが向き合うということも起こるような気がする。私も、そうした一人であった。
 本書は、大学の授業のテキストとして利用できるように作成してある。章毎に、振り返りの問題が「復習問題」「発展問題」として1頁置かれている。もちろん模範解答などはない。それを用いて考えるとよいのだ。章の数が12であるのも、大学の授業日数に合わせているというから、なかなかのものだ。そして、授業の最後にカードを学生に配り、質問やコメントをぎっしり書いてもらうのだという。私がぜひ学生としてぎっしり書きたいと思うような配慮だ。私はきっと楽しんだだろう。次の授業の初めに、その中から選んでコメントしたり補足したりらしい。ああ、私もそのような形式の授業を運営したいものだ。
 だから、その学生の反応からも、本書にはたっぷりの養分をもらっていることだろう。これが「第二版」というのは、クリフォード批判が最後により詳しく論じられているところであるらしい。なるほど、そこは確かに長く深い議論がなされていたように思う。
 さて、本書を紹介するコーナーではないので、その議論を辿るようなことは期待なさらないでもらいたいが、おおまかな地図くらいはご紹介するべきであろう。
 最初は、宗教的議論について問う。論理実証主義の見解、心理学的解釈の検討が説かれる。次は無神論と悪の問題となる。これは深刻な問題ではある。神が存在するなら、悪が何故存在するのか。つまりは、神は存在しないのではないか。これをどのように哲学的に考えればよいのだろうか。本書の副題は「宗教哲学入門」である。しかしこうした大きな根本問題を避けては、入門も何もないだろう。もちろん歴史的にそれはさんざん検討されている。神と悪とが矛盾するのかどうか、落ち着いて考えてみよう。また、人間の自由意思が悪を導いた、というような捉え方もある。教会では、よくそのような言い方をして説教がなされる。だが、そもそもその「自由」という概念自体が問題である。また、人間の自由について思索するうちに、神の側ではどうなのか、ということも問われなければならなくなる。神は全能なのか。神は完全に自由なのか。それならば人間が悪に傾くことを止める能力はないわけがない。神に持ち上げられない石を作ることができないというならば、矛盾するではないか。特にここでは、西洋で神学的に二千年にわたり考えられてきた、弁神論のあらましを見渡して、私たちが考察するための武器としなければなるまい。膨大な資料があるだろうが、それを一筋の道で学生に提供するのが、本書の使命である。
 それからいよいよ、神の存在論証を取り上げる。これを、さしあたり宇宙論的論証、目的論的論証、そして存在論的論証に分類して、一つひとつを丁寧に紹介していく。しかも、誰それがこう言った、というようなやり方ではなくて、その問題そのものに身を置いて、これを仮定するとこのような結論になるが、どうだろうか、と論理で探ってゆく。確かにこれは、学生にとり最高に役に立つ経験となるだろう。こうした論証は、実は教会の説教でも度々触れられるものである。もちろん礼拝説教というのは、神学論争をする場所ではない。信仰の勧めであるから、話の中途でさらりと触れる程度である。また、牧師という者が、必ずしも哲学的思考のできる人とは限らず、むしろ学校では宗教も論理も全く学ばずに、ただ神学校に行って聖書について話すに必要な知識を得てきた、という程度の者が、悲しい哉存在する。繰り返すが、講壇は信仰を勧める場でもある。神学講義をする場所ではない。だから、宇宙論的であれ目的論的であれ、存在論的であれ、神を立てるのは構わないのである。しかし、話が聖書となると、事情が違う。それは、聖書は神を証明しようとする書ではない、ということだ。それは最初から当然すぎるくらい当然のものとして、そこにある。そればかりか、神が存在するからこそ、その聖書というものも存在するのである。そこから逆に証明しようとすることが、説教に関わることは、本質的にないのである。
 最後に、先ほど触れたクリフォード批判を展開しながら、信仰と理性の関係を問うところが、わりと長く続いている。クリフォードの言ったこととは、英米では極めて有名なことなのだそうだが、ひとつの物語である。――船主が移民を乗せた船を送り出す。そろそろ修理しなければ危ないという可能性を知っている。しかし、これまで安全だったし嵐も乗り越えてきたのだから大丈夫だ、と船主は考える。移民を神は守らないはずがない、とも考える。それで船主は安全を確信して送り出したが、やがて船主は保険金を受け取ることとなる。船が沈んだからである。「不十分な証拠に基づいて何かを受け入れてはならない」というのがクリフォードの原則であるという。このような信仰は、悪だということについて、パスカルの賭けの問題も交えながら、やや論理学的な過程を経て、著者は、信仰とは何かというところへと向かってゆく。著者は特定の信仰をもつ者ではないと言っている。だから、弁神論に走るつもりもないし、無神論的に否定しようとする意図があるわけでもない。そのため、最後は「合理性」という概念の再検討によって、著者なりの納得のいく陸地へ着地しようとする。そのとき、「信頼」という考え方がひとつの重要な鍵を握っているように思われる。私たちが日常生活で、絶えず信頼しながら生きていることは、私も度々触れている。その信頼が、社会にも拡げられていることは明らかである。その点をもっとこの信仰の問題にも適用できないだろうか。一定の証拠に基づいて信じることは基本であるが、それだけですべては賄えない。何かを信じることは必要である。但し、誰かを議論で組み伏せてさあ信じろと迫るようなことではなく、何らかの形で社会全体で共有できるものとすることを以て、健全な合理性とすべきではないのだろうか。特定の信仰が、独断的に形成されるよりも、何らかの形で見直しが要される、というふうにもそれは読める。
 キリスト教に適用してみよう。聖書世界には一定の証拠がある。仏教のように純粋な思索の世界の出来事ではなく、考古学的にも肯ける歴史の中での出来事が、聖書の強みである。文献も、ある程度しっかりしている。しかし、聖書解釈においては、かつての教義が当時の解釈においてなされたという点を振り返ると、現代では過去と全く同じには解釈できなくなってくる場面も多々ある。そもそも、旧約聖書の律法規定を、私たちはなにひとつ遵守しようとはしない。それなのに、特定の箇所については、執拗に神の命令だという根拠を持ち出して、非常に差別的なこともしてしまうし、過去においては正義の名のもとに平気で命を奪っていたのであった。ようやくひとつの結び目が、近年解かれようとしている。性的な障害についてである。だが、保守的なところはそれをも弾圧するわけだし、進歩的なところも、実はキリスト教側からそれを言ったのではなくて、単に時流に乗って正義の側に立っているだけではるような向きもある。
 本書の議論は、思考の訓練になる。だが、それが大人にとっての目的だとは思わない。適切に訓練された後は、自分自身の問題に、それを適用することが必要である。「神」という言葉を使う者は。そして、「神」を信じている、と告白する者は。




Takapan
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