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『神さまと神はどう違うのか?』

ホンとの本

『神さまと神はどう違うのか?』
上枝美典
ちくまプリマー新書429
\860+
2023.6.

 ちくまプリマー新書というのは、もしかすると岩波ジュニア新書を意識したかもしれないが、「プリマー」というからには「オトナ未満」をターゲットにした新書シリーズである。物事を、比較的分かりやすく、ティーンエイジャーに伝わるように説き明かそうとする目的があると思われる。
 なんだ、若向けか。そんな印象を与えてしまう可能性もあるが、少なくとも本書に限っていえば、そんなことは全くない。ガチである。確かに説明は丁寧で親切であると思う。しかし、内容の抽象度と広範囲にわたることについて、全く手を抜いていない。否、そもそも物事を分かりやすく説明するということは、非常に高度な技術を要することなのであり、その意味ではプリマー新書はどれも特別の力のこもったものである。
 それにしても、「神」がテーマである。神学的な神と、信仰的な神との間の橋渡しをしようとしている。これを、分かりやすく「神」と「神さま」という表現で論じていくだけの話である。
 信仰的な立場からの「神さま」をどう位置づけるか。信仰の理論というものを提示する。哲学的な立場における「神」はどういう概念か。これを、できる限り具体的な例をも持ち出しながら、しかし実のところ高度な抽象的思考を育むような形で、説明が続く。
 そしてこれらを結びつける話が始まるのだが、そのときにも難しい言葉を避ける。もしかすると多少曖昧な言い方になるかもしれないにしても、それを意識した形で、説いてゆく。「がある」という存在と、「である」という存在とである。これらは、英語のbe動詞の用法で必ず教えることなのだが、それは存在を意味することもあれば、繋辞としての役割を果たすこともある。それが都合良く、日本語では「がある」と「である」という助詞の相違により、「ある」だけでは区別できない捉え方を分けて示すことができるのである。
 古代哲学における神概念とその「証明」をも適切に触れる。これは確かな哲学入門にもなっている優れものである。
 気づけば、思いのほか多くの思考枠が本書には盛り込まれている。自由の概念との関わりもあれば、プラトンに基づいて魂の不死について触れてもいる。また、その先に、「クオリア」が取り出される。これは著者のひとつの慧眼であるのかもしれず、それにより人と神との結びつきの何らかの接点を探ろうとしているように思われる。実はこの「クオリア」、私はその新しい考え方の流行に乗り遅れていた。ある人気の脳科学者の本が、このクオリアについて説明するという触れ込みであったのだが、私にはさっぱり呑み込めなかった。ご本人には常識なのであろうが、「クオリア」とはどういうことか、読者に分かりやすく示すことがなかったのである。周知のものとして自分のペースでどんどん喋るばかりで、置いて行かれてしまったのだ。それが、この神についての本の中で、いみじくも「クオリア」とは何かが丁寧に述べられ、期せずして私はそれを理解することができたのであった。概念をきちんと提示することをモットーとする哲学者として当たり前のことかもしれないが、ありがたかった。
 宇宙人によりコピーをつくられるという仮想物語が4種類提示されるあたりは、若向けであるかもしれないが、楽しかった。そこには、高度な自我論がもちこまれていた。いつからか、「自分探しの旅」が盛んに言われ、「本当の自分」というものを求める若者が増えていった。もはや若者に限らないとは思うが、私たちはいまの時代、「本当の自分」を探したいと多くの人がもがいている。先般は、キリスト教の礼拝説教でもそれを求める若い声があった。しかし、追及は浅かった。本書をお薦めしたい。自我というもの、本当の自分というものについて、これほどに分かりやすく、明晰に掘り下げた説明は、滅多にないものだと思う。世界に一つだけの自己というものに、どう迫ってゆくか。自分をどう裸にしてゆくか、その挑戦が始まる。読者もそれについていけばいい。
 しかし肝腎の「神」はどうなったのか。スピノザの思想は汎神論と呼ばれるが、論理的にどうか、それを知るというのはどういうことか、これもまた丁寧によく説明されていると思う。ただ、スピノザはやはり「知る」方向に走る。「神さま」は、そうではなく「信じる」ことに主眼があるだろう。最後の章は、その「信じる」へと深まってゆく。
 これが、信仰者から書かれたものであれば、キリスト教への誘いとなってしまうだろう。だが本書はそうではない。哲学者である。信仰者ではない。しかしながら、「神」の概念から、「信じる」ことへと突き進まなければ、話はまとまらないのである。私たちの日常的な「信頼」というあり方も含め、「神さまを信じる」ということの意味を問う。もちろん、危険な「信仰」もある。カルト宗教の企みに引っかかりたくはない。それと紙一重の部分があるのは確かである。その見極めの一つには、出会う人の人格や人物、それがある、というのが著者の提示ではある。尤も、それが分かれば苦労はしないので、それだけでは多少弱いような気もするが、それほどに、「神」というものが、信じるにしろ考えるにしろ、簡単なものでないことは明らかである。
 ただ、「神さま」という姿を掲げて誘う悪しき者に対抗するためにも、背後にある「神」の概念についての十分な思考と検討は、役立つことだろう。著者はそこを願っているように思われる。その意味で、えらく簡単に「信じた」つもりになり、そのくせ聖書を何も見ようともしないし感じようともしない、そんな自称クリスチャンが少なくない中で、本書が果たす役割は小さくはないような気がする。クリスチャンこそ、ぜひ本書を繙いて戴きたい。その上で、神の愛を噛みしめてゆく道が与えられることを、私は望んでみる。




Takapan
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