本

『「神様」のいる家で育ちました』

ホンとの本

『「神様」のいる家で育ちました』
菊池真理子
文藝春秋
\1000+
2022.10.

 流行語とすらなった「宗教2世」であるが、本書はサブタイトルに「宗教2世な私たち」という形で、その実態を訴えることとなった。この言葉が世間に知れ渡ったのは、2022年7月の、安倍元首相の殺害事件を通してである。その容疑者の身の上を表す言葉として、それが浮かび上がった。
 本書は、その前に書き上げられている模様。だから、決して「ブーム」に乗って売ろうとしているわけではない。尤も、本来集英社がそのウェブサイトで公開していたこのマンガを、出版すべきであったのを、宗教団体からの抗議で停止されてところ、文藝春秋社が出版を申し出たというような事情があるらしいから、文藝春秋社は、言論の上での勇敢さをもつと共に、これを売れると判断したのは確かであろう。それ故に、さらに多くの人の目につくようになったとなれば、よかったものである。
 著者自身、アルコール依存症の父親と、創価学会信者の母親との間に生まれ、なかなか辛い子どもの立場を強いられた「宗教2世」である。そのことも、本書には描かれている。しかし全体で7人の「宗教2世」のストーリーが紹介される形で、様々な宗教において同様のことがあるという事実を証拠立てる形にもなっている。
 この言葉の使い方からすれば、私は「宗教1世」である。だから、本書の主役たちの立場でこれを読むことはできない。
 だが、自分で宗教を選んだのでない、という意味であるのならば、殆ど誰もが「宗教2世」と言えるはずである。日本の宗教団体の信徒の人数の合計は、日本の人口を上回るのだともいう。氏子という意味で、神道の信徒として登録されている場合も多いことだろう。寺に家の墓があるということは、仏教徒であるという意味になっているはずである。つまり、宗教を信じているという意識をもたずして、客観的には宗教の中に属していることになっている場合が実に多いはずである。
 しかしながら、これらの場合は、今使われている「宗教2世」の言葉は当てはまっていない。特別に熱心な活動をしている宗教、あるいは時にカルト宗教、もしかすると金銭巻き上げの宗教の場合だけが、「宗教2世」と称されることになっているはずである。しかし「宗教」と称することで、無意識的な宗教団体所属者が、意識的な信仰者に対して偏見をもつようになる図式が待ち受けているのではないか、と私は危惧するのである。
 それは別として、確かに思い切った形で、特定の宗教であることが分かってしまうマンガにより、子どもとしての立場から見た、親の異常さが描かれている、というのが率直な感想である。これでは、その宗教団体からクレームが来るのも、分からないではない。子どもの目からのストーリーであるために、信仰の異常性が強調されてくるのは、やむを得ないだろう。無意識的な宗教団体所属者が、食いつきそうな点が救いは、その親から子どもがそれぞれに独立していく道が拓かれていることと、親もその子に対して一定の理解を示しているケースがあったということだろうか。
 子どもは親を見て育つ。親の仕事を受け継ぎたい、と思うことも当然ある。昔なら、それが当たり前であったことだろう。しかし職業選択の自由が常識となってからは、後継ぎという考え方が定めになることはなくなった。だが、そのためにまた子どもの側としては、自分は何をしたらよいのだろう、と悩む場合も少なくない。それが職業だからそうなるのであるが、信仰であればどうだろう。信仰の自由というものも憲法で認められているが、信仰選択の自由とは言わない。
 他方、親としては、自分の信仰を子どもに受け継いでほしいと思うのも、実のところ普通の感情である。実際、そのように機能しているのが一般であり、仏壇を子が守り、孫が生まれるときにはお宮参りもすることになった。寺の住職の子は、檀家が後継ぎとして期待しているという姿も、特に田舎では当たり前になっているだろう。牧師の子が牧師になりたがる気持ちも分からないではないが、後継ぎという呼び方は避ける傾向にある。
 キリスト教の場合には、神の選びというものが関わってくるため、少しばかり難しい事情があるのだ。表向きの教義の勉強だけで、牧師になる者が現れるからである。これが、キリスト教信仰の劣化を招いている点は疑えない。キリスト教信仰は個人が神との出会いの上で与えられるものであって、親から受け継ぐものではない。そして、親が子に受け継がせるものではない。その意味で、キリスト教の信仰者は、常に「宗教1世」なのであって、ここで言われているような「宗教2世」という考え方は存在しない、と見ることもできるはずである。
 本書のタイトルには、カギ括弧付きで「神様」とある。そう代表させて差し支えはないと思うが、この「神」の概念は、日本における宗教理解の一つのネックとなっている。まして、「宗教」という概念になると、凡そ教育の中でまともに扱われていないのであるから、混乱が生じていることは、当然と言えば当然である。
 信仰ということの中に、「私が」という自我を強調させる宗教が、概ねトラブルの素になっているような気がする。宗教団体そのものがそれを教義のようにしている場合、その宗教の中心人物自身が、実は信仰していない、というパラドックスが隠れているようにも、私は感じる。信仰とは信頼であるとすれば、生き方そのものである、とも言えるはずなのであるから。




Takapan
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