『神の飛び火』
高橋たか子
女子パウロ会
\1100
1986.10.
高橋和巳の妻であった、ということを知ったのは、後からだった。と言っても、高橋和巳という名前にも、最近の若い方は反応しないかもしれない。1971年に若くして亡くなった文学者である。その死後、高橋たか子も作家活動に入る。間もなくカトリックに入信し、その後フランスに渡り、修道院生活のようなものをしている。
実は本書は、そうした背景を知らないままに、加藤常昭氏の推薦があったからこそ、手に取ったまでである。仏教精神に生きるある方が、各地から講演会に呼ばれるが、その妻には決して聞きに来るなと戒めていたのだという。あるとき内緒でそれを聞いた妻は、嘘ばかり言っている、と評したらしい。深い内容はそれ以上は説明すまい。その引用があっただけだが、加藤氏が非常に優れた本だと述べていたせいもあって、それを読んでみたくなった。
この本は、いくつかの部分からできていて、まず、題にもなった「神の飛び火」という章がある。これは、三人の神父との文章のやりとりである。目次には「霊的対話」と書かれているが、確かにそれは非常に霊的なものである。レベルが高い。
私は実は、最初にカトリック的な教会に足を踏み入れた。伝道旅行でカトリック教会に貴重な資料を見せて戴いたこともある。カトリックの仕方をかなり真似ていたので、聖人についての本や話に親しんでいた。そのせいもあり、本書で書かれているカトリックの考え方、とくにそのやや神秘的な部分、聖書やイエスをどのように捉えるかという方向性については、かなり実感として分かる部分がある。のんびりしたプロテスタントの信徒には思いもよらないような発想や、霊的と呼ばれる世界が、ここには溢れている。著者は神父に問う。また、自分のイメージを豊かに語る。ペースは著者のほうがリードしており、神父を前にして、蕩々と自分の幻みたいな信仰体験と自らの霊的感覚を語ると、私の目には、神父のほうがたじたじとなっているようにすら見えた。文学者としての著者の筆が、信仰者が自らの魂について意識することを、実に見事に表現している、と言ったほうがよいかもしれない。
これら三人の神父とは、沢田和夫・高橋重幸・奥村一郎である。私は特に奥村神父の本は幾らか触れたことがあり、敬虔な人柄はやはり神父だ、というふうに感じていたが、この高橋たか子の語る信仰は、それ以上に深いようにすら見えるものだった。女性特有の、というと語弊があるかもしれないが、何かしら私の手の届かない世界というものが、そこにあるのではないか、とも思われる。カトリックの女性の中には、すぐれた文学者や活動家が多く、文字の向こうに果てしない何かを宿していることを、私などは羨ましく思うことすらあるのだが、ここでもそうしたことが起こっているのだと思う。
2つめの章は「パリからの手紙」という。パリに暮らしている中で、知人に当てた書簡やパリで思うことの報告のようなものが並んでいる。エッセイと呼ぶべきジャンルなのだろうが、キリスト教信仰の霊的なところにも触れながら、人間そのものを問うものがあり、また、パリ特有の風景、とくにその信仰における精神的背景というものが、美しく、かつ鋭い表現で、流れるような文章が次々と展開する。こうした流暢な文章を書くことのできる人が、羨ましく思う。
最後は、「エロスとアガペ」と題するエッセイであり、女性の感覚でそれが語られると、不十分な理解だとは思うが、教えられることが多々ある。その最後に、雅歌について語ったものがある。これは私の妻の愛する書でもあり、かつてこれについていろいろ教えてもらったことがある。たぶん男の自分だけで聖書を読んでいても、雅歌はたぶん理屈で捉えようとしていただけだっただろう。ところが違う。雅歌は、聖書に入れるかどうかでもめたというくらいに際どい書なのではあるが、しかし神を愛する思いがこれほどに情熱的に明らかにされているものは、ほかにない。著者自身、最初はそれに気づかなかったと言っている。しかし、ここには紛れもなく「熱愛」というものがあるのだという。これはもっと体験的に強調されてよい、と著者は告げるのだった。
さらに「続・念祷について」と称する小品がある。以前に書いたものの続編だそうだが、「念祷」という言葉は一般に馴染みがないであろう。私も体験的には語れないので曖昧な言い方しかできないが、「口祷」に対するものであるというから、世間的には瞑想のようなものを想像するとよいかもしれない。ただ、それは確かに祈りである。歩いていても、乗り物の中でも、それは可能だそうだ。いや、待てよ。ひとが生きているそのすべてにおいて、この念祷というものの中にあったとしたらどうだろう。なんともうれしいことではないだろうか。
とにかく、霊的なものに触れたいと思ったら、本書はお薦めである。それも、やたら抽象的に暴走しかねない、中世以来の修道院生活の中での聖人的な著作とは異なり、私たち日本人の平凡な生活の中での出来事と絡ませながら、その世界の一皮隔てた裏にある神の真実の出来事に出会うことができるとなると、これは黙っていられない。大袈裟な看板を掲げはしない。だが、だからこそ、黙想の中で出会う神との交わりを、ここで追体験できる期待が生まれるかもしれない。真摯に読み、問うならば、きっとそうなのことだろう。

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