本

地上を旅する神の民』

ホンとの本

地上を旅する神の民』
カール・バルト
井上良雄編
新教出版社
\2330+
1990.9.

 教会と宣教双書シリーズの15番であり、副題と言うよりはもうタイトルと同じくらいの大きさの文字なのだが、《バルト「和解論」の教会論》と記されている。まことのその通りで、タイトルに偽りはない。バルトの『教会教義学』第四巻「和解論」の中の三部の教会論をひとつにまとめて、原著の五分の一ほどに圧縮したダイジェスト版である、と編者の「あとがき」に記されている。
 バルトの文章は難解であると言われる。気持ちはよく分かる。私も、何かしら正確に述べようと思うと、その正確さをなんとか揺るがさないために、様々な注釈めいた表現を差しはさむことにより、一文が長大になることがある。私とて、半ばそれは意識してやっているので、バルトもそうなのではないかと思う。しかし、これをそのまま日本語にしたとき、一体主軸はどれなのか、挟まれた注釈がどのような視野の中で触れられていることなのか、よほど寄り添って読んでいるのでなければ、全く分からないままに目だけが進んでいくということになりかねない。読書会でゆっくり話し合いながら読んでいるのならともかく、一人で読み進むときには、どうしても先を急ぐ。それで、ところどころ、これが大事なのかな、といった不安と共に頁をめくることになる。
 何が言いたいかと言うと、このダイジェスト版は、いわばその枝葉めいたところが削られているので、実に読みやすいのである。バルトの邦訳はいくつか読んだが、格段に分かりやすい。ひょっとした自分の理解が進んだのかと錯覚してしまいそうだが、たぶんそうではなく、すっきりと中心の筋道だけを残して示してくれているからなのだろう。
 こうすると、読者は要点を掴みやすい。これも「あとがき」にあるが、「日本の教会の前進に役立てばということ」を望むことが十分できるものとなっていると思う。大著を、読者にとり近づきやすい形で届けたいという編者の願いは、実にすばらしい見方であるに違いない。
 とはいえ、やはりある程度の読み慣れや、知識などは必要だと思われる。ひとつには、原文がイタリックであるのだろうか、邦訳では傍点が付けられている言葉がたびたびあるので、それに注目することである。特別な意味をもって用いる語であることもあるし、そこを他のものから区別し特化する目的があると思われるので、極端に言えばそこだけを拾っていけば、言わんとしていることの骨子は掴める。しかしそれだけ見ても意味が分からないというとき、その前後を注意して読むようにする。この繰り返しをすれば、大きく捉え方を外すことがない。十分に理解はできないかもしれないが、何かが伝わってくるであろう。
 そこで最終頁にある傍点を取り上げてみよう。傍点箇所は《 》で示すこととする。 「教会は、自分をそのような比喩として認識するときにこそ、自分が《世のために存在している》のだと言うことを理解する。」
 比喩というのは、イエス・キリストの預言を具体的に何かしら形にしてみた姿として捉えてみよう。教会はなぜ世にあるのか。どうしてここにあるのか。そしてまた、教会に属する私は、どういうところにいるのか。この前の部分から、「中間時」という語が強調されて説かれている。まだ神の国は完成していない。しかしすでにキリストの復活を経験した時代の中にいる。「すでに」と「いまだ」の間にいる、とよく言われた考え方を示していると思われる。
 そして教会の喜びは、「教会が、すでに来たったそしてなお来たりつつある神の国の比喩であり、その意味で《世のために存在することを許されるという喜び》」以外のものではない、という文で最後が締め括られている。
 神の国を映し出す存在として、ここにいてよいものだと神に認められていることを、教会を建てる私たち一人ひとりが、喜びとして噛みしめて世の旅を歩みたいと願う。本書には個人的な信仰や道徳のようなものが張り巡らされているわけではないから、絶えず自分はどうか、という眼差しをもちながら読み進むことをお勧めする。他人事だとしてしまわないのが、教会論を読むときの最大の味わい方であると思うのである。




Takapan
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