本

『「神の王国」を求めて』

ホンとの本

『「神の王国」を求めて』
山口希生
ヨベル
\1700+
2020.10.

 新刊書が紹介されたときには一応チェックするが、諸事情で後回しにされ、ついに買わなくてもいいか、の世界に閉じ込められていたタイプの本。改めてその紹介を見ると、これは読みたいと思うようになり、発売後1年半してから手に入れた。
 神の王国。それにカギ括弧がついている。元の語は分かる。いわゆる「神の国」と訳されている語であり、時に「神の支配」の意味だと説明される語である。サブタイトルに、「近代以降の研究史」とあるから、古代の理解をターゲットにしているわけではないことが分かる。近年、これはどのように捉えられているのか。あるいは、私たちはどう捉えなければならないのか。
 月刊誌『舟の右側』で三年間にわたり連載された記事を元に、加筆修正をしたものだという。「あとがき」によると、社会に大きな影響を及ぼしたキリスト者にとり、関心を呼んだ概念である。それをどのように受け止めて、自分の使命として働いたか、ということもまた、大切である。しかし本書は、イエスがこれをどのように理解し、この言葉を使ったか、ということに的を絞る。
 このタイプのテーマのとき、ともすれば、聖書の活用だの歴史的観点だのと、いくらでも素材をもってきて、結局「〜であるにちがいない」と、自説を高らかに掲げるようなものに出会うので、用心しなければならない。幸い、本書はそのようなことはなかった。著者自身、ずっと長くから「神の王国」について関心があって調べていたというのではなく、ふとした機会にこれを問うていくうちに、嵌まってしまったということらしく、恰も読者と共に、この新たな森に足を踏み入れて探検をするかのような楽しみを、私は覚えた。しかし、もちろんそれはよいガイドがいるという、安心できる冒険である。
 このテーマについての研究を、19世紀辺りから繙いていく。有名な研究者の業績を、短時間で知ることができるメリットは大きい。その辺りが手際よくまとめられているだけでも、本書を手元に置いておく価値があろうというものだ。
 挙げると、ヴァイス、ダルマン、シュヴァイツァー、ブルトマン、クルマン、これが著者の分類する「古典的研究」の章。続いて、ドッド、ケアード、ボーグ、ホースレー、フランス、ライトと続く。この辺りがなかなか起伏に富み、面白い。「神の王国」についてのみのまとめであるから、これらの研究者自身がどういう信仰をもち、また他にどういう点で特色があるのか、ということについての言及を期待することは難しい。あくまでも、「神の王国」の問題であるのだが、なにしろイエス自身が重大な関心をもって用いた語であるから、それはそれで、研究者たちの挑む姿は、力強い。この流れの最後に、荒井献や大貫隆までも取り上げられ、クロッサン、タイセンとくるから、充実している。
 本書をまとめるにあたり、ここまで福音書を軸として展開してきた「神の王国」の理解に、新約聖書の他の文書も交えて論ずるのも、粋である。そこに再びライトが登場するが、これはパウロ書簡を扱う。とくに旧約聖書との関係が扱われる。さらに、ヘブライ書を描くモーフィットは、逆にヘブライ書の学びに相応しかった。一見二元論かと見紛うようなヘブライ書であるが、どうして最初からあんなに天使についてしつこく言及してくるのかなど、新約聖書の異端児たるこの書簡を分かりやすく解説するものともなりえたように思う。ボウカムによる黙示録の問題もまた、細かな点に気づいて調べてあることに感心する。なるほど、そのように読むと黙示録がもっと生き生きと伝わってくるものなのだ。
 まことに、「研究史」をレポートしてくれたことは、たいへんありがたい。その上、著者の信仰に対する姿勢も快く感じられ、奇を衒うような自説の展開に辟易した人も、安心して信仰の書として学んでいくことができるのではないか、と思う。
 実は本書は、2020年10月に一度出版されている。その後2021年8月に、改訂増補版として再版されたことになる。そこには、本書に対する書評がいくつか巻末に加えられている。なかなかお洒落な取り組みで、できそうでできない企画なのではないか。それでは、帯にある「大貫隆先生ご推薦!」というのは、最初の版からあるのだろうか。まっとうな信仰を示す本への推薦は珍しいかもしれないが、自身の「神の王国」論が一章取り上げられているのだから、なるほど、推薦してもおかしくはないか。
 なお、幾つかの章に設けられている「コラム」もまた、概説として学習に役立つ。聖書を、もう少し掘り告げて読みたいと思う方には、恰好のものではないだろうか。価格も良心的である。




Takapan
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