本

『隠れたる神』

ホンとの本

『隠れたる神』
山形謙二
キリスト新聞社
\1408+
1987.7.

 本を読みながら泣くということは、そんなにないことではある。小説ならば感情が揺さぶられることは時折あるだろうが、信仰の書では、やはり特殊かもしれない。いや、十字架のイエスを思い泣いたことも多々あるのだが、今回は人の信仰の姿である。
 著者は医師である。この題だけだと、ピンとこないような印象があるが、比較的大きくタイトルの下にすぐ置かれているサブタイトルが「苦難の意味」とあるのを見ると、胸が少し苦しくなるように感じる。
 それは序文でいきなり、「われわれは、愛の神がなぜ、わたしたちが苦難や痛みに会うのを許される野か、なぜ苦難が存在するのか、という宗教の中心課題にぶつかって苦しむ」とくるので、なおさら、迫ってくるものを覚えることになる。しかしここから、聖書の言葉をやたらと並べ、神は苦しみを喜びに変えてくださいます、などと言ってこられたら、残念ながら興ざめである。
 大丈夫。本書は期待以上のものとなっている。
 私は中古書店でこれを見つけた。赤いボールペンで無造作に線がたくさん引かれていた。でも構わなかった。私もひどく安く買ったためでもあるが、そんなことは関係なく、文章の力とその背後にある思いというものが伝わってきたからだ。それに、赤い線は前半でぷつっと終わっていた。いやはや、もったいない。ぜひこの前の持ち主も、最後まで読んで泣いて戴きたかった。
 最初に、イザヤ書45:15をルターが「隠れたる神」と取り上げていることを挙げ、これが本書のテーマとなる。それは最後にも再び大きく取り上げられることになる。
 聖書の言葉が引かれるのはもちろんだが、その合間にあるのは、医療の現場で遭遇した様々なケースである。また、患者の遺した詩や言葉なども時折紹介される。当事者の言葉は、命に替えて示されたようなものであり、重みが伝わってくる。もうこれだけで私は泣きそうになっていた。
 言葉として引かれるのは、患者だけではなく、古今東西の様々な人たちである。C・S・ルイスやキルケゴールなどの言葉もくるし、著者が直接出会ったわけではないであろう病苦に喘ぐ方々の言葉でもある。日頃からこうした苦難というものについて考えに考えているからこそ、あらゆる場面から、その苦難に関わる言葉というものに触れ、ストックされていくのだろう。また、ふだんの医療の中でも、患者にそうした言葉を紹介していくのだろう。印刷物や挨拶の中で触れるというのもあるだろうし、命の言葉がたくさん著者の中に蓄えられている。それが、そう分厚いわけではない本書の中で蒔かれるものだから、密度の濃い本となってしまったのだろう、とも思う。
 それがもちろん、人間の力で乗り越えるというように流れていくわけではない。だが、かといって神が素晴らしい力を見せて活躍するというものでもない。神は隠れている。となると、神は冷たいのか。神はどうしているのか。歴史上も、どうして神が見過ごしているのか、神がいるならばここで助けてほしいのに、そうした事件はたくさんある。個人的にそれを持ち出せば、無数と言ってもよいだろう。だが、神は沈黙する。そう、遠藤周作の『沈黙』がひとつのその道を描いて物議を醸したように、神の沈黙というものは、へたをすると只の弁神論になってしまう虞すらある。神は都合のよいように現れたり隠れたりするのではない。
 しかし、信ずる者には益をなす。病院において、直にその現場に立ち会う医師は、その都度自らを省み、また天を見上げ、同じ問いを繰り返し問うているに違いない。一人ひとりが、自分の生を精一杯通すことで十分であるとしても、医師はたくさんの人の生を背負うような形になるのだ。
 どうすればよいのか。そんな答えはない。ただ、神の言葉を待つ。神を見上げて祈った人の言葉を聞く。本の終わりのほうでは、そうした苦難の証人たちが幾人が、ただエピソードとして語る。筆者もまたその現場から隠れている。もうここでは号泣ものである。
 彼らは見ていた。目に光の像としては見えないものを見る。信仰で見る。あるいは、心で見る。そのような、祈りでしか表せないようなものを以て、本書は閉じられる。キリストが、十字架のキリストが、共にいるはずである。私たちは、死をも、希望をもって見つめられるだろうか。そこに隠れている神の愛を、信じるならば、知るならば、きっとそうなるはずである。
 それはもはや、神が隠れているとは、決して言えないような姿である。神の国は、もう来ているのである。




Takapan
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