本

『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』

ホンとの本

『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』
古賀史健
ダイヤモンド社
\3000+
2021.4.

 文字しかない。いや、厳密に言えば中程に、桃太郎の紙芝居の場面のイラストが並んでいる。だかいわゆる挿絵はない。文字だけだ。これが、本書のコンセプトを主張しているのだともいえる。
 ライターのための教科書である。副題にある「書く人の教科書」でよいとは思うが、一定の文章、読んでもらう文章を書くという意味で、これは確かにライターのための教科書である。本を開くとそのことが書いてある。「書く人」と「ライター」とは違うものを指していると私は思うので、ライターでよかったのではないかと感じる。筆者自身、開始してすぐにライターは「書くのではなく、コンテンツをつくる」という項目をつくっているので、渾身の本書のタイトルはやはり「ライター」でよかったのではないかと思っている。
 しかしとにかくその熱い思いは、揺るぎなく「あとがきにかえて」の中に溢れている。しばしば本は「あとがき」から読め、とも言われるが、どうだろう、これはお楽しみにしつつ最後に読んだほうがよいのではないか。読者が、この500頁近くひたすら文字を辿ってきた末に、「だよね、そう思っていたよ」という感覚を味わうために、そのほうがよいと思って憚らない。
 読ませる文章である。だからライターなのだと思う。ぐいぐい引き込んでいく。その上で、そのネタなるものをガンガン明らかにしていく。もったいないとも思うが、ありがとうという気持ちに包まれてくる。
 世間によくある文章のコツは、多くがビジネスパーソンのためのものだ。書店の啓発書の並びの一角を占めているのが、確かに文章ものだ。学校でたいがいやってきただろうと思いきや、そうではない現実が露呈しているともいえるが、ビジネスの現場になると、文書を読んでもらえるかどうかで自分の給与や生活も変わってくるのだから、買う側は必死なのだろう。そういう人に買ってもらえるためには、分かりやすい本でなければならないだろう。いかにもプレゼン的に成功すいるような、そして図表や強調点がこれでもかと押し寄せてくる啓発書が売れるのだろう。
 だが、そんなふうに「読ませる」とような文章は、ライターには無縁である。編集者がほどよく魅せるようにすればいい。文章そのもので勝負しないと、内容がないことになるライターの仕事は、文章自体に「読ませる」ものを含んでいなければ成り立たないのだ。
 だから、本書のように、だらだらとひたすら文章が何百頁もあるような分厚い本を敬遠するような人は、もう永久にライターにはなれない。ビジネスだけのための文書作りなら、それで結構。だからやはり、これは「書く人」ではなくて「ライター」のためであるに違いない。
 その具体的な内容をここで暴露するつもりはない。ただ、当たり前のことが書いてあるようで、実はそこをちゃんとしないと書くことが成立しないという、とても厳しいものがあちこちに宝物のように隠れていることは間違いないと感じる。もちろん筆者独自の主張もある「起承転結」ではなく「起転承結」を説くあたりなど、圧巻である。が、とにかく説得力のある実例や、言いたいことを分かってもらおうとするためのお喋りの段取りから繰り返しから、感心することばかりである。文章が長いから読まれないのではない。いくら長くても、すいすいと入ってくる素麺のような文章は、ついついいくらでも腹に入っていくのである。だがなんじゃこれは、というような堅いガムのようなステーキ肉は、たいがい苦労して喉に押し込むものの、もうこういうのはいらない、という印象を抱かせてしまうだろう。
 題名のとおり、「取材」「執筆」「推敲」の順序で話が進む。このうち私などは「取材」という点では経験が殆どなかったので面白かった。人に尋ねるためのノウハウをこんなに教えてしまってよいのだろうかと案じるほどであった。ただ、私は個人的にこの「取材」についての説明で、気づかされたことがあった。それは、聖書を読むという行為だった。単に読むのではない。そこから誰かに伝えるために、「メッセージ」にしていくという方法がある。礼拝説教というものがたとえばそうであるし、私は個人的に聖書から始終メッセージを送ることを生きがいとしている。これは、普通は、聖書を読んで自分が感じたこと、教えられたことを語るというふうに捉えがちである。だが、私は「取材」なんだなと教えられた。神は聖書という形でその思いを人間に記させている。いわば聖書記者自身が取材をしているのだが、私たちとしては、その記事を、神の語ったものとして「取材」するように捉えてもよいかと思うのだ。そしてどのように取材するのか、そこからどういう記事を書くのか、それが私に課せられた仕事だとすると、本書書いてある「取材」のコツというか、取材とは何かという哲学というか、そうしたものの多くが、合点がいくのである。ライターの思想を書くのではない。語った人のファンになり、その人の言葉を書く。しかしただ言われただけのことを文字に移すのでもない。またライターの趣味に応じて誘導尋問したものを記事にするのでもない。語った当人が読んで目を細めるような、言いたいことをうまく言ってくれたな、と思われる文章を書きたいと思うではないか。それが説教ではないか。
 執筆、推敲については他書でも言われることが多いものがある。書いた時間ではないからいくら書いてもだめなものは捨てる、というのも衝撃的に思う人がいるかもしれないが、私ももとより同感である。しかし、どのことも書くために役立つことばかりであると言ってよいだろう。なんの反発も覚えない。もしかするとライフワークかもしれない、と著者は口にしていたが、本当にそうであるかどうかは今後まだ分からないにしても、それだけ口に出すほどの価値のある一冊となった。
 おっと、こんなふうに宣伝してしまうと、すばらしいライターが世に溢れてしまうかもしれない。ほどよく秘密にしておきたいという心理に包まれる、読後感である。




Takapan
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