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『書き換えられた聖書』

ホンとの本

『書き換えられた聖書』
バート・D・アーマン
松田和也訳
ちくま学芸文庫
\1400+
2019.6.

 以前単行本で読んだものであった。よく著者名まで覚えていればよかった。タイトルを換え、文庫本で売り出した本書を、つい注文してしまった。届いた本を読み始めると、これは以前読んだあの本だということが、すぐに分かった。しかし買ってしまった以上、悔しいのでもう一度目を通すことにした。
 筆者の主張は分かっている。そして今回のタイトルはややセンセーショナルなものにして読者の関心を誘うというのもよく分かる。元のタイトルは『捏造された聖書』であったから、いくらか穏やかになったようにも見えるが、もはや「捏造」という語がアピール力を失いかけている(へたをすると読めない?)ことから分かりやすくしたのでは、とも勘ぐってしまう。
 聖書を最初は素直に信じた青年であった。それが次第に疑問を抱き、今度はその疑問を正当なものとして証明するために、やたらと聖書を詳しく研究した、という経緯がある。言いたいことは、聖書がすべてそのまま真実の神の言葉であるという福音派の主張が如何に軽率であるか、そもそも聖書というものはオリジナルもなく、無数の異なるバージョンが存在し、それも写本として書き写す段階でいろいろに書き換えられてきたのだ、ということである。それも、単にミスとして書き写し間違いというものもあるだろうが、意図的に換えたものも多々あるであろうことを論証する。中には、欄外にメモしたものが本文に入れられたと思しきものもあるのだが、一旦権威あるものとして認められたら、その書き換えられたほうをまた書き写すということで拡がっていくのだから、数が多い本文がオリジナルだというふうに推測することもできなくなる。また、印刷技術の誕生により、聖書がそれまでよりは格段に容易に普及していくということになったところで、その印刷したのはどの版になるのかということを考えると、なんとなく選ばれたものであって、その写本がまた相当に曰くつきの書き換えられたものであったとなると、そこから訳された欽定訳など、いかに美しく定評のある訳だとはいっても、その原典としてものは胡散臭いものであったということになるだろう、と著者は示す。
 いやはや、悪意を以てやっていると見なす人がいるかもしれない。挑戦的な言い方で立て続けにまくしたてる本書の口調に嫌悪感を抱く人がいるかもしれない。そしてまた、議論そのものにも、時に安易な決めつけ方をしているようなところがないわけでもなく、文庫本のために加えられた巻末の解説の中で、挑発に乗せるという本の売り方があることに注意を喚起し、また本書が主張していることを安易に知ったかぶりをして分かったふうに撒き散らすことを控えたほうがよいと提唱している。文献学を踏まえ、翻訳しか読んだことがないような人が、とやかく言える内容ではないのだ。この解説者は、著者がキリスト教を「書物の宗教」としている大前提から、この本の言う捏造ないし書き換えという問題をぶつけてきているけれども、果たして「書物の宗教」であると決めつけてよいのかどうか、に疑問を出している。「書物を使う宗教」として捉えるならば、もっと柔軟に、書き換えられた聖書を通じても十分信仰に値する宗教として捉えられてもよいし、またそうあるべきではないか、というような考えのようである。私もその意見には賛成である。
 しかし、このような著者の意図や思惑に翻弄されるのではなく、信仰ある読者としては、本書を燃やしたくなる感情を抑えていたほうが得策ではないかと私は考える。ここに挙げられた文献的な資料は、十分に聖書を味わう上で、参考になりうるのである。そこがまた、どこまで信用してよいかというふうになってくるので、安易にはお勧めしないが、確かに文献として分かっていることについて多くのことが具体的に本書では挙げられている。この部分は古い写本にはないとか、ここは書き加えられたものであろうとか、かなりのことについては十分信憑性がある。というのは、ほかの聖書解説などにも同じことが書いてあるからである。また、写本がどのようにして成立してきたか、あるいは誰がどのようにして出版していったか、といったことについては、なかなか普通の本ではお目にかかれない話題が本書にはけっこうたくさん紹介されているのだ。これを利用しないではない。
 自分の信仰が、ちょっとした反論によって揺らぐような方は、お読みになるべきではない。また、そんなのはみんな嘘だ、と苛つくというのも、実のところ信仰の弱い心のなせる業であるかもしれないから、そう思いたくなる人にはお勧めしない。私などは、聖書がこのような変化に富む書であることを十分踏まえた中でキリストに出会うという形で楽しんでいるわけだから、聖書に何千何万という種類があったところで、自分の中での神の事実は変わることがない前提でいる。だから、ほうほう、と聖書が調うまでの歴史や人類の努力を教えてもらうつもりで、こうした叙述を喜んでいる。むしろ知らない経緯をたくさんここで知ることができたのである、と。同じような感覚をお持ちの方には、これはひとつお勧めの本であると言える。著者の思惑とはずいぶん違うところで楽しまれることになろうかとは思うが。




Takapan
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