本

『解放の神学』

ホンとの本

『解放の神学』
G.グティエレス
関望・山田経三訳
岩波現代選書109
\2200+
1985.11.

 よく聞くし、引用や解説で、なんとなく分かっていたふりをしていた、だが実は読んだことがなかった、そういう本はいくらでもあるものだ。あることをきっかけに、『解放の神学』の本のことが話題になり、考えてみたらそのオリジナルを読んだことがないことに気づいた。キリスト教の現代史においてはいくらでも呼び出される本であり、さも周知のように言及されるのであるが、確かに私は読んだことがなかった。
 こうなると、読まなければならないという意識がめらめらと沸いてくるのが私である。よほど金銭的にアタックが難しいものでなければ、実行する。さて、本書は如何に。すると、数百円で手に入ることが分かり、即注文となった。
 まだいまほどに話題になっていない最初の版なので、出版した岩波のほうでも、ぜひ読んでほしいという意気込みは感じられるものの、果たして読まれるだろうかという疑心暗鬼なところもあるような出し方であるように窺える。新書より少し大きく厚い、現代新書というシリーズから出されている。当時これが2000円であったならば、ずいぶん高く感じられたことだろう。グティエレスがこれほど世界に浸透するとは思えなかったかもしれない時期である。あるいは、海外での反響からすれば遅かれ早かれ読まれるだろうという勢いがすでにあったのかもしれない。元は1972年なのであるから、研究者や神学者たちの間ではよく知られていたのだろうか。但し、バチカン側から解放の神学が表向きに紹介されたのが1984年であるというから、日本語訳も、この影響で急がれたのではないかと思われる。このような時代背景は、そこに関わっていなければ、私のような者からはなんとも言えない。
 ラテンアメリカにおける、貧困からの脱出と、その貧困をこしらえているのは何者なのかということを追究する眼差しとして、解放の神学が提唱された。もちろんこれは、信仰はすでに前提になっている環境においてこそ成立する理論である。人口の9割がキリスト者であるという中で、どうしてこの貧困がまかり通るのか、というところからこそ、これは問題視されて然るべきとなるのである。
 だから、この日本ではどういうふうに受け止められるのか、きっと冷淡に見えたことだろう。さあ貧困に反対して立ち上がろう、というかけ声があっても、教会は実に無力である。まるで場違いなところから正義感ぶって叫んでいるというだけの図式しか残らないかもしれない。
 こうなると、日本でこの解放の神学を扱うということは、神学のための神学でしかないのではないか、との疑問が生じてもおかしくはない。キリスト教国の中で搾取が行われ、あるいはいわゆる先進国の一方的な支配の中で貧しい生活が強いられている人々はどういう信仰をもつべきなのか、またそこで起こす行動にどういう聖書的根拠があるのか、それをいったい私たち日本におけるキリスト者は、どのように問わなければならないのか、妙な図式だが、私たちはそこから問わなければならなくなってくるようだ。
 スラムに暮らし貧しい人々と共に生きた神学者である著者は、日本でいえば賀川豊彦を思い起こさせるものがあるが、神学者として非常に優れた仕事がなされる素地があり、本書も実に神学的書物としての堅固さを有している。引用も半端ない凄さなのだが、訳者はその注釈などを大幅に割愛したと告白している。それだげて相当な頁数を取ることになるのだろう。丁寧な議論が積み重ねられ、あらゆる側面から反論が来て崩しにかかれないように、言語を駆使してとにかく何でも議論の支えとなるように話を運んでいく。過去の歴史を繙き、神学者の議論を持ち出し、またそもそも用語の定義をきちんとすることで無用な誤解や無駄な論議をなしにしようという構え方から、相当な量の文字をここに並べる。本文のポイントの小ささと、二段組みという情況で300頁を超えるのだから、生半可な態度では読み通せない。
 しかし、言いたいことは決して多岐にわたるものではない。あらゆる面から考えて、この地上で貧しいキリスト者が苦しんでいることは正しくない、と叫ぶ預言者のように、著者は常に弱者と共にある。ただそれだけであるのかもしれない。当然、そうなると終末観はどうなるのか、教会とは何をするところなのか、従来の神学から疑問が飛んでくることも分かっている。そのための準備と基礎固めが大変であったことだろうと思う。
 キリスト教世界に限らない。その後、イスラム関係の国においても、解放を求める市民運動、民主化の動きが世界史を飾るべく起こっている。それでもなお、いわゆる先進国は必ずしも貧困問題に対して、著者の満足のいく解決を図っているとは言えないであろう。世界はここからまたどこに未来を決めようとするのか。世界の一員として、私に何ができるのか。解放の神学が問いかけているのは、必ずしもここに挙げられた防御的議論に限られず、未来に開かれた、攻撃的なものとなっていくべき何かであるのかもしれない。
 そのために、忍耐して、本書を辿っていく時間が、私たちそれぞれに必要なのではないかと強く思わされた次第である。




Takapan
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