本

『影をなくした男』

ホンとの本

『影をなくした男』
シャミッソー
池内紀訳
岩波文庫
\300+
1985.3.

 1789年のフランス革命で貴族の特権を剥奪されたシャミッソー一家は、各地を転々とする。アーデルバルト・フォン・シャミッソー8歳のときのことであった。やがてベルリン(プロシア)に落ち着き、幸運に恵まれ、15歳から学んだドイツ語により、家族の中でひとり「ドイツ人」となる。軍務の中でナポレオン戦争に巻き込まれ、ベルリンとパリとを往復する生活を送ったという。
 植物学者となったシャミッソーは幸福な家庭をもつが、「祖国をなくした男」であったと評することができるという。この「影をなくした男」がヒットした後、祖国をなくした自分と重ね合わせた部分があるのか、という問いを投げかけられたそうだが、彼は、決して自分は影をなくしたのではない、と答えたという。
 深刻な話のようなタイトルだが、元々は「ペーター・シュレミールの不思議な物語」というような題である。また、この題については何度も付けかえられたのだともいう。邦題は、分かりやすくその内容を伝えている。そもそもこれは、メルヘンであり、楽しい話である。主人公ペーター・シュレミールが金のため金持ちの屋敷を訪ねるところから物語は始まる。するとそこで、不思議な男を見る。「灰色の服を着た男」である。彼が近づいてきて、シュレミールの影が欲しいと求める。その代わりに幸運の金袋をあげよう、と。シュレミールの影はその男に巻き取られ、影のない男となった。周りの人々はすぐに気づく。あいつは影がない。まともな人間ではない。こうして散々な扱いを受け、結婚の機も失う。なんとかあの灰色の男に再び会えまいか。いろいろあって会えるのだが、今度は魂を要求してくるし、悲痛な経験もする。シュレミールはついに金袋も棄てて世界をまたに歩き回り、自分は自然の学者として生きるのだと、作者であるシャミッソーに手紙を送る。自分の分身のような役割を、シュレミールに負わせているのは確かだが、さて、作者にとりシュレミールは本当はどういう存在であっただろうか。
 お伽噺である。教訓をもたらしていると見ることができるかもしれないが、純粋に楽しめばよいだろうと思う。友人の子どもたちにせがまれて即興でつくった物語がベースになっているともいい、子どもたちの求めに応じた形で生まれた作品であるともいえる。ただ、私が古書店でこの本を見て買う気持ちになったのは、岩波文庫の表紙に書いてあるその紹介文のせいだ。
 「影をゆずっとはいただけませんか?」 不気味な灰色の服の男にこう乞われるまま引きかえに……との始まりに、頭の中にミヒャエル・エンデの『モモ』が浮かんだ。時代的には明らかにシャミッソーのほうが古い。当時影というものに注目があつまり、時代のトレンドであったとされているが、それが文学としても取り上げられたわけで、ドイツでは有名であったはずである。エンデがこの小説を知らなかった、とするほうが難しい。『モモ』の場合には、灰色の男たちは時間泥棒であるが、同様に悪魔を思わせる存在である。もちろん物語はそれぞれ全く違う。しかし、何かモチーフになった可能性を考えるだけでも、楽しいのではないだろうか。
 すでに幾種類かの邦訳があるというが、本書には豊富な挿絵がある。白黒の版画的な絵だが、実に味があり、物語の展開をより楽しませてくれる。1908年版に製作された、エミール・プレートリウスのものだという。
 さて、影がブームであった当時だから影だったのかもしれないが、影そのものをもっと普遍的に考えることもできるだろうし、またいまの私たちであったら、影ではなく、何を灰色の男に売っているだろうか、と考えてみることも有益であろう。エンデは時間をそこに用いたが、さらに心や愛なども喪っているとしたら、と気づかせてくれるきっかけになるかもしれない、ありがたい物語であると言えるのかもしれない。




Takapan
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