『影の現象学』
河合隼雄
講談社学術文庫811
\1000+
1987.12.
私の手許にあるこの本は、2009年発行である。実に第43刷であるという。しかも、それは学術文庫としてである。1976年に思索者から発行されたものであるらしい。いったいどれほど読まれればよいのだろう。解説を書いた遠藤周作は、その解説の最初と最後を、本書が「名著」であるときっぱり告げる文で飾っている。
影なるものは、実体の影であり、本来注文もされ得ないものである。しかし、影について、人間は昔から何かを感じ続けていた。影が実は操っているのではないか。また、表向きの人間の姿には影があって、そちらが本質であるということはないのか。
しかし、それを断定して理論づけるというようなことを、したいのではない。それは悪しき独断論である。その現象を確かなものとして捉えつつも、その背景を定めようとするのではなく、ただ言えることを綴ってゆく。それを構成するのは、さも読者自身である、とでも言いたいかのように。
影についての考察をするために、あるいはまた、影についての人の想像力を読者とシェアするために、著者は世界の文学から「影」について優れた示唆を含むものを幾つか取り出す。冒頭は、シャミッソーの『ペーター・シュレミールの不思議な物語』である。「影を失くした男」として有名である。私も読んだことがあるくらいだ。しかし、続いて登場した、アンデルセンの『影法師』については知らなかった。アンデルセンの話はまとめて読んだことがあるので、もしかするとその中にあったかもしれないのだが、記憶がなかった。
シェイクスピアの『マクベス』も用いられるが、結局こうした実例は、ユング心理学の分析のために必要だったように、本書は展開する。河合氏は、ユングの心理学を日本に紹介することに長けていたため、それはある意味で当然であった。そして、ユングの夢についての話をも持ち出す。夢というと、フロイトの夢判断が思い起こされるが、心理学的により様々な事象を考えるために役立つのは、やはりユングのほうであろう。
その影とは何か。幾つかの事例を繰り出す。たとえば、投影であるとし、たとえばそれは肩代わりである、という。
実は偶然であるのだが、本書を手に入れて、そのうちに読もうと置いていた間に、村上春樹の『街とその不確かな壁』を先に読んだのだった。これが、「影」を一つの大きなテーマとしていた。相変わらず不思議な場面ではあるのだが、街に入るときに影を失った中で、影を救い、脱出しようと試みる、などというものがあった。文学であるから、一つの解釈でこれを片付けることはしたくないし、できないだろう。事によると、作家自身も気づいていないのかもしれない。読者がそれぞれに、愉快に推測すればよいのである。自ら感じればよいのである。だから、その小説を読み終わるや否や、本書を開いた。
さて、本書の叙述は、影の「病い」へと進む。「二重身」と書かれているが、近年は「ドッペルゲンガー」というドイツ語でもよく知られるようになった事例である。これもまた、文学作品からも盛んに引用され、著者の豊かな読書生活を彷彿とさせる。現実の症例もあるため、それは単なる想像上の物語の中にあるもの、とは言えなくなる。それで、読んでいても背筋が凍りそうになることさえあった。
影は、光に対するものである、とも考えられる。それは聖書のような宗教的な背景の中でも当然現れるような考え方である。実際、宗教的な概念は、この影に関するものが多々あるわけであり、私たちは再び現実問題として、影を見つめるべきであることを教えられる。
話題は、王殺しの事例に見られるようなことに言及され、さらにトリックスターというテーマにも拡がってゆく。さらに、ストレンジャーという捉え方も、文学においては様々な角度から取り上げられるようになる。
最後に、ケストナーの『ふたりのロッテ』から、自我と影との関係という形で、正にこの「私」がどう影と対峙するべきか、考えるような段階に入る。それは、現代人における「死生観」の問題へと展開する。死が影となって及んでくるとき、ロレンス・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』が、ストーリーを説明するなど、思いのほか長く取り上げられる。私の知らない物語であったが、ストーリーですぐに分かった。これはいわゆる『戦場のメリークリスマス』の話である。映画は1983年に公開されているから、著者はもちろんその映画のことを知らない。ということは、心理学的に、映画は実に優れたテーマを有していたのだ。
最後は、ヘッセの『デミアン』が扱われるが、実に文学的にも豊かな一冊であった。確かにこれは「名著」であろう。人間である限り、本書で触れられている「影」に、ひとつも関わりを感じない人はいないだろう。本書を読んでもなお感じない人がいたとしたら、その人こそまさに「影」そのものであるのではないか、と思われる。
こうした影はまた、闇と比較できるかもしれない。影ないし闇があるからこそ、光が分かる。神という光を覚えるときに、自分の内の影なる部分を自覚することが、どうしても必要である。本書は、案外そうした自己認識のために、役立つものとなり得るのかもしれない。それにまた、文学者もまた、本書を読めばここからインスピレーションを受けるのではないか、というふうにも感じた。

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か
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