本

『わが妻恋し 賀川豊彦の妻ハルの生涯』

ホンとの本

『わが妻恋し 賀川豊彦の妻ハルの生涯』
加藤重
BANSEISHA
\360+
2012.5.

 これは電子書籍Sonyの中での価格などである。書籍としては、1999年に発行されており、価格的には8倍ほどとなっている。
 順序として私は、先に『負けんとき』を読んだ。こちらは、ヴォーリズ満喜子の生涯を綴った物語であった。明治の女性の生き方を紹介する本がこのごろよく出ているが、これとハルの本とは、ずいぶん趣が異なることをまず記しておく。ヴォーリズ満喜子の場合には、すっかり物語調に創作されている。事実の取材に基づいたものであるわけだが、脚色され、生涯をドラマチックに紹介する。それに比べて賀川ハルの場合には、そういう部分は殆どない。第三者の語りにより、史料を読み解くかのように進み、研究発表がなされるかのようである。その意味で、ドラマ性を本の叙述からは感じることはないのだが、私にとりそのほうが、いわば嘘のない、記録性の高いものとして読みやすいと思える面がある。
 分量は多い。また、終わりに賀川ハルやその周囲の人の文章が付録として載せられ、また、著書や文章、説教などの講演や年表など、参考にするに役立つ内容がふんだんにある。ヴォーリズ満喜子の場合には、それはない。あくまでも創作作品であった。
 さて、賀川豊彦は世界的に有名である。賀川がさほど有名でないのは日本だけではないか、と言われかねない事態である。この情熱的なキリスト者に光を当てることができない日本文化だからこそ、議員の差別的発言が絶えないのだというふうにも思えるほど、もっと知られなければならない人物の一人であると確信する。
 もとより、賀川自身がまた別の意味での差別的な視点や意識をもっていた、という点についてもいろいろ言われるし、時代的に仕方のない部分や、個人の限度というものもあることだろう。また、今でこそ差別的に見えるかもしれないが、その意図や構え方からすれば、考慮されるべき部分があるようにも思われ、むしろ賀川の落ち度というよりは、問題提起として私たちは受けとめればよいと思う。が、もちろん私自身、賀川豊彦を神のように崇めようとするつもりもない。しかし、揶揄したら貶めたりする理由はさらさらないだろう、とは思っている。
 ハルは、その妻である。夫には当然さまざまな視線が集められ、研究もなされる。しかし、この妻については、ヴォーリズ満喜子の場合もそうだったけれども、殆ど知られることがないのが実情である。しかしハルの場合は、自身神学校を出ており、女性活動についても多くの実績がある。まだ資料はあるものと思われる。それが巻末に集められているのだが、もちろん内容としてもそれはふんだんに触れられ、知らされる。
 その生い立ち、賀川豊彦との出会い、キリスト教に人生を見出して貧民街の小間使いとして嫁いでいく様子、それは第三者的に語られるものの、いきいきと伝わってくるものがある。小説やドラマの苦手な人には、むしろストレートに内容が入ってくるものだろう。
 それにしても、驚く。これほどの人が実際にいたのか、と。もちろん賀川豊彦本人がそうである。しかし、妻ハルも半端ではない。間違いなく、もっと知られるべきだと考える。時代が違うから考え方や生き方がまた違うことは当然把握できる。しかし、同じ人間、ハルの生き方から挑戦を受けることがないとしたら、よほど魂が鈍っている。そんな不感症ではありたくないと思う。それは彼女と同じことをせよ、というものではない。人間の根本的な精神や立場というものが、どんなに生き方を変えていくものかを垣間見る思いである。
 ちょうど、「花子とアン」という連続ドラマが放送されている時に、この本を私は読んだことになる。だからなおさら興味深かった。村岡花子とは親類にあたり、このハルの話が書かれたときには当然「花子とアン」など存在しなかったのだが、村岡さんたちのことがたくさん出てくる。福音印刷として賀川豊彦やハルと、深い関わりが出てくるのだ。平吉さんの亡くなったときのことも描かれている。
 この時代のキリスト者たちの生き方がどうであったのか、そしてそれと今を生きる自分とがどう関係するのか、比較できるのか、いろいろなことを突きつけられる。生ぬるい生き方でしかない自分が恥ずかしく思われてくる。また、生ぬるい時代でもある。
 ひたすら頭が下がる思いだが、それだけで済ましてはならないということも本当である。




Takapan
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