本

『賀川豊彦全集19』

ホンとの本

『賀川豊彦全集19』
賀川豊彦全集刊行会編
キリスト新聞社
\1000
1963.1.

 古書店で見つけた、賀川豊彦全集のひとつ。本巻は文芸的なものであり、三つの小説が収められている。「小説 キリスト」と「小説 使徒パウロ」、そして自らの自伝的小説ともいえる「石の枕を立てゝ」がここにある。キリストが半分以上を占めており、パウロは未完であった。自伝的なものは、全体の四分の一ほどの量があり、適度な長さとなっている。
 量のことばかり言ってしまったが、この小説、ありきたりのものではない。私の知る限り、キリストを小説仕立てにしようとしたものは、福音書の記事をなんとかひとつのストーリーにまとめ上げることに熱意を費やし、福音書相互の矛盾や相違を、辻褄の合うひとつの事実の中に押し込めていくものばかりであり、福音書にある記事を一定の時間順に並べていくというようなものが頭に浮かぶものである。だが、賀川豊彦のものは違う。
 いきなり、洗礼者ヨハネの弟子たちが、ヨハネの死骸を引き取ろうとやってくるところから始まる。そして、ユダヤの名前を有する人物が次から次へと現れて、ごく日常的な対話を繰り返していく。福音書のどこにそんな話があるのか、誰も知らない世界が展開していくのである。イエスもやがて登場するが、非常に気楽な兄さんのような口ぶりで、非常に人間らしい、あたりまえの人物として描いている。もはやこれは、聖書に出てくる幾ばくかの人間の名を用いただけの、新しい演劇のようである。  さすがに最後のエルサレム入城あたりからは、各曜日の名を小タイトルとして刻々と時が過ぎていく様を感じさせるが、実に気楽な会話が、普段着のありさまで紡がれていく。賀川豊彦の想像力たるや、驚くべきものがある。もちろん、聖書を穴が空くほど読んでいる人だから、急所は外さないどころか、細かな記事内容をちゃんと踏まえて、登場人物に語らせていることもよく伝わってくる。
 次第にイエスの言葉が表に出なくなってくる。周りの人物たちが様々な角度から語る。悲壮感というよりは、日常的な語り口である。あまりに淡々と感情をこめずに描いているのに驚くほどである。そしてイエスの死までは克明に描きながら、その後最後の復活については、実にあっさりとしているのも、恐らく演出なのだろうが、あまりにそれが象徴的であるのに驚かされる。復活のシーンを詳細に描き出すことがむしろ現実味をなくすだろうということを考えたとすれば、それはマルコの書いた福音書における態度と似ているかもしれない。ネタばらしのようで申し訳ないが、どのように復活したのかなど少しもここには描かれていない。あたかも舞台の幕が閉まった後に、黒子じみた者がひたすらに詩の朗読をするかのように、しばし信仰を叫ぶことで終わるのである。
 最後に賀川自身の言葉が一頁添えてある。この小説は五年にわたり執筆してきたそうだ。このような書き方は冒涜だと非難されるかもしれない、と案じている。それでもそれは甘んじて受けると決意する。そして現代にキリストを連れてきたかったと漏らすのだ。

 パウロのほうは未完に終わったが、その冒頭がまたイカしている。パウロの死骸を拾いに来た仲間の会話からであるが、パウロは実はこのとき九死に一生を得たこととなった。まさに賀川自身を彷彿とさせるような迫害の場面である。そして聖書に出てくる人物もだが、出てくることもない人物を縦横に散らばらせ、使徒行伝の出来事を時折交えながら、パウロの足跡を追いかける。私はやはりギリシアでの哲学的演説の場面が面白かったが、とにかく一人ひとりの人物が生き生きしている。各地を巡り、様々な人と出会う。
 石の枕については、副題のように「自伝小説」と自ら記しているところだが、新見というキャラクターに自分の人生を歩ませているようなところがある。キリスト教の講演をするものの、社会運動に生活をすべて捧げている。その運動を続けるために金が必要なため、文章を書いてそれを売り、貧困の人々を支えていくのだ。政治家とのつながりもあり、なかなかうまく取りはからう面もあり、人心を掴む人物として一目置かれていることも分かる。しかし金に関しては騙されたり、しくじったりしながらえらく苦労する。訪ねてきた若者が目の前で自殺する場面なども、実際にあったからこそ描けたものであろう。衝撃的なシーンが続く。最後には視力の危機に陥るという暗さを以て終わるが、かすかに灯りが見えることが、一縷の希望を読者に懐かせることに成功しているだろうと思う。
 武藤富男氏が最後に「解説」を加えている。作品とその内容、背後の事情などについて、実に詳しく説明してくれている。ここだけ読んでも、ひととおり本書については分かるはずである。お忙しい方がこの本に触れたなら、ここから読んでみては如何だろうか。
 不思議なイメージで、キリストとパウロとを駆け抜けていくことで、ありきたりでない、新鮮な思いを与えてもらったような気がする。こうした体験は、時々必要なのだろうと思う。自分の思い込んだ、自分なりのキリスト像だけが、すべてのすべてではないのだ。また新たなキリストと、出会うことができたような気がして、得をしたように、私は勝手に考えている。賀川先生、それでよいでしょうか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります