『科学の果ての宗教』
/内村剛介
講談社学術文庫96
\240
1976.12.
ずいぶん以前の本で、私が取り寄せて読んだのが、発行から半世紀後のことである。何で知ったのか定かでないが、誰かの本での言及の中で、良い本のように記されていたので注文したはずだった。その後、佐藤優氏が、自分が影響を受けた本として挙げているのも見かけたが、そこには内容が詳しく書かれてあるわけではなかった。
その佐藤氏によると、著者の内村剛介は「ロシア文学者で思想家」であるとしている。ロシアとくれば佐藤氏への影響ももちろん理解できる。だが、本書のタイトルは、「科学の果ての宗教」である。科学では収まりきれない宗教について論じているのではないのだろうか。
ところが、開いてみると、そこはやはりロシア文学者。当時は社会主義の真っ最中であり、一部では社会主義こそ次の世界の常識となり、資本主義は終焉を迎える、と叫ばれていたような時代である。学生運動もそういう方向で、権力に立ち向かっていたのだろうし、本場ロシアでも、アメリカより優位にすら立つ勢いを見せていた。但し、もちろんその中にある歪みについては指摘も多く、不気味な存在であったことは確かだ。
本書は、科学というものをも、そうした枠の中で捉え、いわば宗教を否定した理想的な社会の仕組みとして運営されていたロシアの地方に於いて、その困難を指摘した一人の文学者、ソルジェニツィンが、実は宗教というものへの足がかりをもたらしてくれる、というような点を述べようとしているのだ、と次第に明らかになってきた。
ともかく、共産主義は他方では、無神論を中核としているとされていたわけだから、そうやって人間の考える合理的な組織によって世の中はうまくゆく、と結論づけるとなると、神が不要になる。神という概念が、たとえ空想に基づくものであったとしてもなお、そうしたものを全く許すわけにはゆかないということである。その立場を、著者は「知識」という言葉で代表する。そして、「知識」に対して「いのち」を掲げ、そちらに宗教の役割を担わせるのである。
キューバ危機というのもあったし、核兵器を当たり前のようにもつようになった人類は、そのイデオロギーの対立がこじれると、核兵器を実際に使用するという可能性も当然出てくるわけである。そしてそこにあるのは人類の破滅であるということは、とうに分かっていた。そうした対立は、不信の下に成り立つことになり、従って逆に「信じる」ことが、それを回避する道となるだろう。
ソルジェニツィンは、その「信」を表に置くのだ。著者はそのように見て、本書を綴る。決して熱い本ではない。文庫本で100頁余りである。
しかし最初から彼を持ち出すのではなく、そもそもロシヤ(著者は「ヤ」と書いているのでそのように記す)の知的階級はどのようであったか、近代の歴史を辿りながら、そこに流れるものを見定めようとする。そしてそこに生まれた革命、特にその中での農奴の位置づけと実態を明らかにし、科学を掲げる国家の中で、宗教がどのように「いのち」をもたらすかを問おうとしている。
そして最後の3分の1辺りで、専らソルジェニツィンに的を絞り、その神や宗教への考え方をあぶり出すという構成である。そこで問うている「自由」の問題は、やはり近代の私たちの重大な課題であることになるだろう。そうして、ソルジェニツィンの宗教を、「人間の呼吸の拠りどころ、自由な人間の尊厳の拠りどころとして在る」ものだと述べている。だからまた、「まえがき」で触れたような「信じること」こそが、「疑うこと」よりも人間には根源的であることを主張する。
ロシアに特化した議論ではあったが、逆にだからこそ、一点に集中したブレない強さというものがあるとも言える。クリアな眼差しが、ロシアという的を外すことなく注がれ、そこでしか言えないかもしれないけれども、私たちに一つの確かな思考の枠を提供する。こうした議論の仕方は、案外私たちはもたないものなのかもしれない。小さな書なので、歴史を、半世紀前に戻るつもりで読んだことになるが、心に残るものがあった。

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