本

『科学者と戦争』

ホンとの本

『科学者と戦争』
池内了
岩波新書1611
\780+
2016.6.

 科学とは何か、科学的に考えるとはどういうことか、これを分かりやすく説くことにかけて定評がある著者である。小中学生の国語の問題にもよく登場する。それだけ、文章としても優れていることを意味すると言ってよいだろう。
 こうした声が気に入らない人が、世の中には必ずいる。当然この本が日本における事情を論じているかぎり、自衛隊の存在や、軍備といったことをターゲットとしているものと予想されるゆえに、最初から毛嫌いしてしまうタイプである。
 確かにその方面の力強い主張が続き、反対派の人にとっては面白くないだろう。だが、その中でも、軍学共同という事情を、ひとつ冷静に考えてもらいたいものだ。今「軍学共同」と言ったが、かつては「産学共同」という言葉がよく言われた。大学の研究が、産業界とタイアップして、互いに貢献していく道を求めるというあり方である。それに対して、ここで問題にするのは、軍事技術と大学研究との関係である。
 当然、話の焦点については予想がつく。大学側に対して、科学的な研究だという動機を餌のようにちらちらさせ、費用を出すからという形で、軍事技術に役立つ研究を促し、また技術を完成させようとするところである。大学の予算は削られる一方だと言われる。科学研究をするには、一定の金がかかるが、そこへ、費用を出すと言われたら、それは飛びつくのが当たり前のようなものであろう。
 しかし、日本の科学者は、軍事研究を拒否してきた歴史が或る。それは第二次大戦の反省からであった。戦後の平和主義の憲法の精神も、もちろん関係がある。だが、かの戦争の時にも、軍の命令の中で科学者は、兵器や殺人にまつわる研究を進めたのである。どこでもそうだが、特に東大のガイドラインはそれについて今かなり徹底した方針を打ち出している。だが、政治のほうでは何とか兵器に役立つ研究を、優秀な頭脳に求めてくるものである。ここではその政治的な細かなやりとりについては記さないことにする。何か不案内で誤った経過を記して世の人々に誤情報を提供してはならないからである。そこで、あらましに触れると共に、著者並びに私の考えを交えながら、もう少し綴ってみようかと思う。
 まずは科学者と軍事研究との関係を、かつての歴史的事実の中での出来事として紹介する。そして戦後、日本の科学者はこれに反対する態度をとっていることはすでにお話しした。しかし、防衛省は、あれやこれやと迫ってくる。
 中程で現れる「デュアルユース問題」、これが本書の大きな論点であると言ってよいであろう。科学理論そのものに悪意はないが、それを利用する側が悪い使い方をしたら、科学者は関係がないのだ、という言い逃れである。私に言わせれば「二枚舌」とでも呼んだ方がよさそうだ。
 東大が、その「ガイドライン」において、少しだけ改訂版を出したところ、それについて産経新聞の記事が、東大が軍事研究を「解禁」などというセンセーショナルな見出しで報道した。さりげないかも知れないが、産経新聞の魂胆と企みが実によく現れていることを、著者は指摘する。大学が軍事研究をするのが当然であるかのような思想を常識としようとするかのような動きは、著者にとり最大の問題である。だからまた、著者を疎んじる人々もいるわけである。
 著者は、科学が軍事化してしまうことにより現れるディストピアを伝えようと努め、「おわりに」に至る。ここには、溢れんばかりの著者の思いがこめられているので、途中の政治的なやりとりに嫌気が差す人は、ここを早く読むと安心できるかもしれない。あるいは、不謹慎な言い方だが、「おわりに」を熟読することによって、本書を読んだに等しいことになるのではないか。私たちは多くの学問を会得する。研究に時間と費用をかけ、専門以外の教養も身につける。それらを、どこに用いるか。戦争を支持するためか。否、戦争を批判するためでこそ、でありたい。それが、人間性というものである。
 さらに「あとがき」をも、お薦めしておこう。そこにちらりと書いてあるが、私は、「想像力」の必要を強く覚える。これが、死滅しそうなのだ。科学者は、戦争という巨大な悪へ呑み込まれないために想像力を必要としている。その現場を食い止めるための戦いを著者が挑むのであれば、そもそも戦争を起こす人の心を食い止めるために、想像力が働くことを、私は願い、求めるのである。




Takapan
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