本

『壁』

ホンとの本

『壁』
安部公房
新潮文庫
\550+
1969.5.

 手にしたのは、平成28年の第99刷。なんとよく発行されていることよ。それでもなお、古書店には殆ど見当たらないのだから、恐るべしである。
 そう、私も古書店で探した。ほんとうは『砂の女』を探していた。2022年6月に、Eテレの100分de名著で紹介されたからだ。だが、そもそも安部公房の文庫本が、見当たらない。ひとつあったのが、この『壁』である。芥川賞受賞作であることは知っていた。ならば悪くはあるまい。しかも格安であった。
 だが、甘く見てはいけなかった。このシュールさというか、不条理な筋書きには、まともについて行くことができなくなったのである。
 そもそもの安部公房ファンであれば、彼が何を目指してこうした皮肉めいたものを描いているのか、よくご存じのことだろう。カミュもまた壁をモチーフに不条理な世界を描いているそうだが、それとの関係があるのかないのかについても、当然ファンや評論家はご存じであろう。
 私は、この方面にはド素人である。だから、通りがかりの者が関わっただけ、という視点から、自由に触れてみようかと思う。
 受賞作の「壁」は、最初の「S・カルマ氏の犯罪」において、名前を無くした男が右往左往する。きっと「名」ということに意味があるのだ、と、当然身を乗り出して良いし、論ずるべきだろう。けれども、如何せん素人だ。作者たる人物は、当然あるイメージを描いて、それを何かしら関連させるかのように、登場者を決めているだろうが、果たしてそれほど一つひとつの意味を論理的に含ませているのかどうか、は私は疑問である。と思わせておいて、かなり濃厚に自分の中にあるものを計算の上で表現させている、というのも本当だろうと思う。それを、理屈と感情とをないまぜにして作品にしていくことができるのが、やはり天才的な作家である、ということになるのだろう。
 哲学者が道化役を果たしたり、政治運動の考え方が揶揄されるように登場したりするような中で、やはり問題は、名前のない主人公である。私って何、そういう疑問を投げかけたくなるのだが、名前があることで、私たちはけっこう安心しているのかも知れない。名前があるなら、私は誰それだ、ととりあえず言うことができる。本書の場合、「S・カルマ」と書かれた名刺が、どうやら自分のものらしいということになっているが、どうにもそれと自己とが結びつかない。
 その後、奇想天外な展開で、思わず笑うしかない奇妙な展開は、『不思議の国のアリス』に出会ったときのような、予測の不可能さを感じるが、最後に壁になるあたりが、ひとつの人間観の提示ということになるのだろう。世の中や、人々との間に自ら壁をつくるのがよいのか、それてもそこから抜け道があるのか、おまえはどうなんだ、と迫ってくるような力をも覚える。
 本書には、「S・カルマ氏の犯罪」に続いて「バベルの塔の狸」「赤い繭」という三つの小編が並んでいる。直接関係のないものが並んでいるが、それぞれまた、奇妙奇天烈な物語である。いや、物語と呼んでよいかどうかも分からないほどの、不条理さしか感じられない。二つ目の「バベルの塔の狸」は、題からして想像できるように、聖書のモチーフがさかんに用いられている。どうして銀行の管理人が「エホバ」というのか、何か思惑があるのだろうが、それを考察したり、探し求めようとしたりする熱意は、私には起こらなかった。何千年も生きているというのも、日の老いたる者といったことを背景にしているのかどうか、それももはや素人からすればどうでもよいことだ。
 三つ目の「赤い繭」に鳴ると、もうカフカの『変身』とパラレルに考えてもよいほどとなる。それにしても、「おれ」が「赤い繭」になるというのは、如何なものか。と言いつつ、この中にはさらに小さな物語がいくつか入っており、ノアと洪水とか、イヴとかも登場し、はっきりとキリスト教も出てくるなど、忙しい。
 寓喩も皮肉も、いろいろあるかも知れない。それは文学に詳しい方や、ファンの方が楽しめばよい。私たち、理屈っぽい現実の中で生きている者は、時折、詰まったパイプを、こうした不条理な強力な洗剤によって、洗い磨かれるとよいのかもしれない。これを論理的に読み解こうとすることは、本書の効能を無きものにしてしまうものだ、ということにしておこうかと思う。




Takapan
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