本

『学校が学習塾にのみこまれる日』

ホンとの本

『学校が学習塾にのみこまれる日』
前屋毅
朝日新聞社
\1260
2006.10

 ゆとり教育の振り子が逆に振れ始めた。学力をつけることを、文部科学省が主眼に置くようになった。
 その背後には、学習塾というものが、実力的にはい上がってきた事実があった。それはただのお稽古事だとし、邪道だと文部省に敵視され、いたぶられてきた分野であったが、ここへきて、学習塾に学校が屈服していく姿が見られる……。
 経済的な視野を広くもつジャーナリストが、学習塾について調べていくうちに、教育とはどうあるべきか、どうなっているのか、問題提起をするようになっていった。
 実のところ、この本で強く言いたいことは、ごくわずかであると言ってよい。しかし、そこへ至るまでの、この20年あまりの歴史とその背景、逸話などがよく調べられ、読み応えのあるものとなっている。学習塾の経営者、創始者などへの取材も面白い。
 とくに、ゆとり教育が転換されていく際に、根回しを常とする日本政治からすれば異例ともいえる、文部科学次官の独断的判断めいたものが関わっていたことは、注目に値する。そこにも、学習塾の陰が見えているというのだ。
 しょせん、教育行政も、政治でしかなく、教育ではない。政治的手法で、政治的目的と利益、そして官僚主義によって賄われていく。日本の将来を、国家という目的から子どもたちを眺めるだけで、ひとりひとりの幸福を必ずしも目的とはしていない。ところが親とすれば、ひとりひとりの幸福を目的としているものだから、当然ずれが生じる。
 なんとか強制してでも、国を愛するように仕向けなければならなくなったほどに、国は魅力がなくなっているのかもしれない。社会科はもちろんのこと、家庭科の教科書の中には、愛国心と男女区別をなんとか強制していこうとする働きが強い。こころのノートは誘導的な仕様が顕著であった。
 それはともかく、この本ではそこを描くのではなくて、学力をつけさせることが幸福であると考える親と、そのニーズに忠実に応えることで躍進してきた学習塾と、その2つの関係の外部で、横恋慕をしているような文部科学省が、義務教育という強制の場を利用して権威を守ろうとしている姿が浮かび上がってくる。だが、そのニーズを無視できず、ついに学習塾の方に傾いているだろう、というのである。
 そこで著者は、学校には学習塾とは別の重要な課題がある、という意見を言う。
 こういう議論の中で、特定の語の意味が曖昧なままに、それぞれがそれぞれの思惑で用いているために混乱する、というケースが、あまりにも多い。
 この本でもあまり問題にされていないのであるが、著者の主張する部分にも使われていてこの本の重要なキーワードである「学力」という言葉を、挙げてみたい。一体、「学力」とは何を指しているのか。
 著者はもしかすると、ペーパーテストで出題者の意図どおりに解答する能力ばかりが「学力」ではなくて、与えられた情報を処理する能力だとか、信頼に値する必要な情報を探し出す知恵だとか、それらを使って的確な対策を講じていく想像力ならびに創造力のようなものを、「学力」と呼びたいと願っているのではないだろうか。ある場合に、それは「生きる力」とも呼ばれた。
 学習塾も、実は、合格を目指す過程の中で、という条件に限られるのではあろうが、そうした「学力」を育むことをやっている。何も、子どもたちを受験マシンに改造しているわけではない。学校のお偉方は、しばしばそのように見下しているのであるが、そうでなければ、これほどの親が子どもたちを学習塾に送りこむことはないはずである。テレビドラマに描かれるような、合格第一で無慈悲な母親など、めったにいないのである。




Takapan
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