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『従順さのどこがいけないのか』

ホンとの本

『従順さのどこがいけないのか』
将基面貴巳
ちくまプリマー新書
\840+
2021.9.

 ちくま新書の、ヤングアダルト版である。以前類似のテーマで書いた著者に、若者へのものとして書いてくれないかともちかけられたらしい。
 タイトルからして、少し意図を受け取り損ねた。「従順さ」がテーマであることは分かるが、どこも悪くないだろう、と言いたいのか、悪い点はどこか、と言いたいのか、それだけでは判別がつかなかったのである。それはもちろん、私が著者を知らなかったからではあるが、正解は後者であった。従順であることには問題がある、ということである。
 従順というと美徳のように聞こえるから、著者は本編ではそれを「服従」に替えている。有名なミルグラムの心理学実験や、アイヒマン裁判に対するハンナ・アーレントの分析など、若い人ならば知らない可能性の高いことを、きちんと説明しているところに好感が持てる。いや、プリマーが若者だという決めつけもよくない。これは広く大人が読まねばならない基本的な事柄がたくさんちりばめてある本だと言ってよい。
 ギリシア神話や近代科学の成立を振り返りながら、ひとが服従するという背後にどのような文化や考え方があるのかをていねいに説き明かす。これはありそうで案外なかったことなのではないかという気がする。著者の狙いは政治学や社会学の領域にあるようにも見受けられるが、文化や宗教への造詣も深いと見た。そのひとつに、ギリシア神話もそうだが、聖書についての一定の知識があるということだ。
 著者については寡聞にして知るところがなかったが、ニュージーランド在住で、配偶者は外国人のような名前の表記である。キリスト者であるかどうかまでは詮索できないが、自然にご存じであるように感じられる。聖書からの実例としての紹介も違和感がない。
 幅広い見識を以て、様々な例を挙げて、物事を考えていこうとする本文は、退屈させないし、無理のない論理で、かつ筋道が通っているために非常に読みやすい。
 忠誠心を持つことは、道徳的に正しいのか。これを武士の時代の主君への忠誠というところから考えてみるのも、高校生などには分かりやすいのではないだろうか。よく噛み砕き、分かりやすい論旨で、私もこうした文章を綴りたいと羨ましく思った。
 様々な文学作品から、また特に映画は最後に観てほしいという誘いまで入れて、いろいろ例を持ち出す。もちろんそれを知らない人にとりその説明は十分に今伝わるものではないが、たとえそうであっても何を言おうとしているかは十分分かるように説明されているように見受けられる。
 この問題は、日本人に限るものではない、普遍的なものである。従って、中国の儒教から、日本のたとえば「葉隠」の思想からも検討するあたり、心憎い配慮である。家臣が主君を諫めるのは、天下にその主君の愚かさが明らかにならないように隠すためである、という辺りはどきりとした。確かにそうなのだ。これを「恥」というものと結びつけて論じたい誘惑が私などにはあるのだが、本書は論旨がブレないように、寄り道はしない。続いて、不正を知りながら見逃すのは一種の共犯であるという考え方をすぐに明らかにする。いじめの問題にとってそれは深刻なものであろうが、どうしてそうなのか、様々な例を繰り出して読者を導く。重要なテーゼにはゴシックが施されており、論旨を見失うことのないように編集されているのも、もちろん若い人たち向けの故なのだろうが、大人たちにとってもそれはよいことなのではないだろうか。読者が何についてよく考えてみればよいのか、その道標をはっきりさせることは、大切な点ではないかと思う。
 それでは、今度は積極的に考えよう。安易に何かに忠実に振舞い、流されていくようなことのないようにするためには、どうすればよいのか。反対の声を挙げるための根拠はどういうところにあるのか。筆者は、「神の命令に従う」「自分の良心の声に従う」「共通善に従う」という三つの点から考えを進める。これはかなり公平な観点となってまたわくわくするような展開を見せる。
 そのとき、重要な概念として取り上げられるのは「良心」である。それは「常識」概念と重なるところがあるが、話題が豊富で、私たちもそのことについて考えるときに、きっかけとなりうる思想や映画などが次々と繰り出されてくるのが楽しい。フランス国家の暴力的な歌詞と、日本の君が代に潜む考え方とでは実に対照的であるということも、目の前で示させると、強い説得力があるというものだろう。
 しかし、不服従ということになると、現今の法律を犯すという問題が現れる。悪法もまた法なりとすることでは、権力の思う壺となることだろう。違法を悪とするのかどうか、若い人々は特に引っかかるところだろう。そのときには、先の見て見ぬ振りとは意味の異なる、沈黙としての抵抗にも意味があることを教えてくれる。これは、大げさには考えないにしても、わずかな勇気でできることではないかというのだ。安易に同調して保身を求めることへの抵抗であっても、きっとよいのだ。
 だが現実には、どうにもできない権力が圧してくることがある。香港やミャンマーでも、だんだんどうにもならない事態になっていく。著者は思いきったことを言う。暴力は本当に端的に悪なのかどうか、ということだ。暴力はいけませんよね、という安易なコメンテーターへの徹底的な反対の意見を著者は示し、ナチスの事例を持ち出す。だが、いま日本でそこまで切羽詰まっているわけではない。そう思わせていながら、危ない可能性は十分にあるのだ、というように著者は警告する。聖書であれば、差し詰め「目を覚ましていなさい」ということであろう。そこにこそ、本当の「自分探し」があるのだ、というような言い方もしてくる。
 熱いメッセージだ。だが、このメッセージを受け止めることのできる若い人々が、果たしてどのくらいいるだろう。いや、大人も無理かもしれない。香港やミャンマーでは、若い力が抵抗を示していた。日本だったらどうなるだろうかと思うと、私には全く分からない。ただ、あのような形にはならないだろうとは予想できる。それが良いのか悪いのかという判断を私はしようとは思わない。ありのまま、そうだろうというだけである。
 著者は、自分の生い立ちの中の印象的なシーンを最後に紹介して、政治と関わることは人生を生き抜くことでもある、と強く述べる。
 私には、言おうとしていることがよく伝わってきたと言えると思う。政治的な行動を求めるわけではないが、人間はそういうことなのだろうと肯くしかない。また、個人的に言えば、私の関心のある事柄が実に多く本書では触れられていて、まるで私が書いたものではないかと錯覚するくらいのところも多々あった。それは、これまで私がいろいろ告げてきた文章を調べると、どなたも驚かれることだと思う。
 それだけに、「従順ではいけない」ということを明確に伝えるタイトルを付けて戴きたかった。私のように、正反対のどちらの意味だろうか、と迷ったり、逆の意味に受け取って手に取るのをやめた人も、いるのではないかと案ずるからだ。問題は、そこだけである。




Takapan
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