本

『日本宗教史』

ホンとの本

『日本宗教史』
末木文美士
岩波新書1003
\819
2006.4

 丸山真男の「古層」という概念を批判するために、この本は著された。日本には古来から伝統的な何かがあるのだ、というのは思いこみに過ぎない、と。
 そう、ある考えのグループの人々は、口々に、日本の伝統だという。ところが、その伝統と呼んでいるものも、江戸時代以来のものであったり、明治以降であったり、甚だしくは半世紀前であったりすることさえある。いったい、伝統とは何なのか。日本独特などというそのものは、いったい何であるのか。
 それを、歴史から実証的に調べようという、気の遠くなるような作業に、著者は挑んでくれた。
 著者は、仏教畑の人である。それでいて、宗教思想を捉える眼差しには偏りがあるようには見えない。そもそも、その「宗教」という定義でできていない以上は、一定範囲を超えた議論は意味をなさないということを、よく分かっている人のようである。この公平感が、尊い。
 なぜならば、神道教育を公立学校でなすべきだなどと公言しているある政治家は、アメリカのやり方には問題がある故に、日本の伝統しかないのだ、だから神道だ、という説を結論的に掲げているが、こうした図式は、この方面の思想を述べる人々に、よく見られる道筋だからである。もちろん、そこには論理的にも妥当性はないのである。
 私の目についた点を少々紹介する。
 たまたま私は青森に伝わるキリストの墓の問題に、コラムでちらりと触れたところであったが、そのこともこの本の101頁にきちんと述べられていた。
 132頁辺りから、キリスト教が日本の思想に与えた影響を、簡潔に公平に述べているように思われた。
 国家神道が、「宗教」概念を超えて置かれたことで最初からすべてが決されていたというのは全くその通りであり、その優位支配へ移行するときに、内村鑑三などの潔癖なキリスト教の姿が逆に役立っているということが、189頁辺りで説明されている。
 オウム真理教の出現に現在の宗教状況の行き着くところを設定し、この問題点を歴史の中からもきっちりと捉え、これからどうすべきであるかの方向性ももたせている。そのメカニズムめいたものにも考えを及ばせており、ひじょうに読んで得るところの多い本であると感じた。
 国家主義的に傾いていく世相を感じるキリスト者は多いが、それをどのような知恵をもって闘いとするのかは、様々あるであろう。ただ自らの潔癖を主張するだけがすべてではない、と私は考えている。狡いようだが、ヘビのように賢くあるべきでもあると思う。国家神道にかつてのキリスト教界が従っていった一つの流れをこの本が簡潔に語っており、それから学ぶことも大きいかと思う。
 真っ正直に立ち向かう勢力に関しては、必ずや対策が講じてある。巧妙に仕掛けてくる罠に対しては、それを見破る眼差しと、それを成功させないようにする、こちらもまた巧みな策略が必要となるかもしれないのである。
 キリスト者も、この方面に関心をもたれた方は、一読をお薦めしたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります