本

『喜びの知らせ』

ホンとの本

『喜びの知らせ』
朝岡勝
いのちのことば社
\1700+
2020.4.

 爽やかな読後感。気づいていなかったようなことを次々と紙芝居のように教えてくれる。すべてが一続きの物語としてつながって、心が温かくなってくる。
 サブタイトルは「説教による教理入門」。実際の説教で語られたものをひとつの形にまとめあげたのだが、非常に完成度が高い。
 なによりも、説教者の信仰の姿勢が浸透している。確かに神を知り、自らを見つめ、ひとにそれを証しする言葉の力をもつといった条件が揃わないとできない仕事である。それがこんなにも溢れてくる本というものは、なかなか巡り逢えるものではない。
 タイトルは「福音に生きる」としたかったところ、事情で「喜びの知らせ」となったそうだが、個人的にはこちらのほうがよかったと思う。信徒は「福音」という専門用語で、何かしら分かった気になっているかもしれないが、では福音とは何か、と問われたら、固まってしまうかもしれない。そこへいくと「喜びの知らせ」は誰にでもそれぞれイメージが浮かび上がる。そして本書の伝えようとしていることも、全体の雰囲気も、この言葉がぴったりだと感じたのである。
 また、その貢献は、「教理」という理屈っぽいようなものを、等身大の、手触りのできるものとして提供してくれたことにあると私は感じる。「教理」は聖書ではない。聖書から抜粋したものを並べるものではなく、聖書から理解されるものを一定の基準でまとめたものである。いや、そうすればこの「教理」から、逆に聖書を理解していくことにもなる。そこにはいくらか罠がある。聖書を聖書として聖書から知るのではなく、「教理」というフィルターをかけて見ることになりはしないか、という虞である。
 だが教理は必要だとも言える。聖書を各自が好きなように理解したら、そこにとんでもない誤解や無理解が主張されることになり、人間的な力関係でそれがごり押しされてしまうかもしれないのである。実際、歴史にはそういうことが溢れているし、現代のキリスト教世界でも起こっている。いや、身近なあなたの教会にもそれがあるかもしれない。
 このバランスをどうとっていくか。私は難しい問題があると思っていた。しかし本書はその媒介を果たしたと見ている。「説教」である。説教で教理を扱う。それは堅苦しいまとめの文章によるのではない。説教は、説教者が神と向き合う、心を揺さぶられて変革の体験をし、命に生かされてそれを同胞に語るものだ。何らかの責任を担いつつ、神の言葉を語る。聖書そのものではないにしても、それは神の言葉だという伝え方をするし、それが許される場である。その言葉は神の言葉であるが故に、ただ音として文字として地に落ちて消えていくことはない。口先だけのものとはならない。現実に「成る」ものであり、「出来事」となるものである。
 その説教が教理を生む、あるいは私たち聴く者に教理の理解を出来事になるべく突きつけてくる、そして私たちの息として私たちの中に入り、私たちを掻き回して命輝かせる。自分本位な、恣意的な聖書理解ではない、一同に聖霊が降ったとされる場面を備えることができる。思いつきやひらめきでなく、確かな信仰の言葉として、一同にシェアされるべきものとなる。これはいい。
 本も、決して理論だって系統的な構成を示してはいないが、福音すなわち良い知らせを明らかにするところから入り、信徒としてそれに仕える道、聖書を読むことの意味、そこから語りかける神とは如何なるお方か、キリストとは誰なのか、その十字架と復活とは何であったのか、救われるとはどういうことなのか、そこからどのように導かれていくのか、新しい命に生かされることの意味、その辿り着く先にあるもの、そしてこの歩みが現実生活に生かされる中で神が共にいるという強い信頼もしくは信仰、このように読者は高められていく。やはりこれは順序通りに読まれたい。
 その「あとがき」で著者は、常に心がけていたことは、「「喜びの知らせ」としての福音を伝えるということ、そしてその福音に「生きる」ことの喜びを分かち合うということ」であったと語る。これは自身がその知らせを受けていることなしには出て来ない言葉である。一教会の牧師としてだけでなく、若者に向けて、また教会形成に向けても、様々な発言をしキリスト教界に貢献している著者だが、多忙にも拘わらず多くの優れた書に親しんでいる様子がSNSで伝わってくる。それだからまた、信徒との関係も良き導きのうちに結ばれているのだろうと想像するし、事実キリストとの関係の中にも喜びをもって住まわっているであろうことが窺える。だからこその、本書「喜びの知らせ」なのであろう。
 しかし、同じ「あとがき」で著者はこうも語る。「昨今、十字架と復活に集約されすぎる福音理解、個人の救済に重点を置きすぎる信仰理解への反省が語られ、新しい視点に基づく福音理解、信仰理解が語られるようになっています。……しかしながら、これらのことが十字架と復活から焦点がずれる仕方で、また人の罪の現実と救いの喜びの姿を曖昧にさせる仕方で展開されるならば問題です。この説教でも、しつこいほどに、くどいほどに十字架、復活が繰り返されるのは、ほかならぬ私自身が「十字架のことばは愚か」ということを徹底して理解するためでもあるのです。」私はこの姿勢に、全面的に賛成する。
 説教だから注釈もなく一度読めば理解できる。少なくとも信仰があればそのまますらりと読める。だから、信仰をもつ人、もちたい人になら、誰にでもお薦めできる一冊となっている。それから、随所に、詩的な、というと語弊があるが、はっとさせられる珠玉の表現がたくさん隠れている。私はそれを見つけるたびに、すっかり嬉しくなった。その一つひとつがまた、喜びなのであった。




Takapan
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