本

『ヨシュア』

ホンとの本

『ヨシュア』
ジョーゼフ・F・ガーゾーン
山崎高司訳
春秋社
\2,300
2003.9

 やられた、と思った。もし私がカトリックの信者だったら、これに近い物語をいつかどこかで作っていたかもしれない。カトリックの司祭が、健康上の理由で司祭を退いた後、それまでの心の中にある思い、エネルギーを、次々と著作の中に爆発させていったのがこの本だという。
 本を手に取ったとき、旧約聖書のヨシュアのことだろうか、という思いもあった。しかし、聖書でヨシュアという名は、特別な響きをもつ。これが新約聖書になると、ギリシア語のイエスという発音に変わっていくからである。
 アメリカの田舎町に、風変わりな男が住み着く。その名をヨシュアという。質素な暮らしを営むヨシュアのことは、村人の興味を引く。多分に、謎の人物ということで。ヨシュアは、木を扱う仕事をする。いわば大工である。興味本位からでも、そこを訪ねてきた人には誠実に応対し、質問されればなんなりと答える。来客は、宗教や教会についてヨシュアに訊いた。するとヨシュアは、今の教会のありかたを悲しむような言葉を出す。それは、聞く者の魂に響く、冷静な指摘であった。人間が人間を支配することのために教会があるとすれば悲しい。新約聖書のイエスは、そんなことをするために十字架にかかったのではない。聖書でイエスが教えたかったことは……。
 教会への苦言は、私も吐く。それは、ヨシュアもそうだ。教会を憎んでいるからではない。むしろ教会を愛しているためだ。そして、聖書は、あるいは聖書の中の神の子イエスは、どんなスピリットを伝えているかというと――という具合に、人々の質問には誠実に応対するヨシュアであった。
 だが、教会批判をしているとの噂とテレビ局の取材による話題の広まりによって、ヨシュアは、とくにカトリック組織の中枢部ににらまれるようになる。ヨシュア自身、さまざまな宗派の教会に顔を出す。プロテスタントでもカトリックでも、どこにも神はあるのだからといろいろに通っては、尋ねられるままに、宗教と神について思うところを語っていた。それがついにローマに呼び出され、そこで宗教陪審を受けることになる。
「あなた方は、人々の行動を規則でしばるのではなく、むしろ彼らを導いたり励ましたりすべきなのです。また人々があなた方の規則に従わないときに、神が不快に思われると言って脅すのは、精神的な脅迫であり、神に仕えることにはなりません。あなた方は羊飼いであり案内人ですが、人間が行動するうえでの最終的な裁き人ではないのです。裁くことができるのは神のみなのです」
 ヨシュアはこう言い、また、人々の私生活までも暴き出す教会のやり方に反論して、そうしたことはすべて神に委ねて、「イエスの教えを聞きたがっている数百万の人々に福音を伝える仕事に取りかかるべきではないでしょうか」と締めくくります。
 教会とはどうあるべきか、神は何を望んでおられるのか、ヨシュアはその点については何のためらいもなく言い放ちます。あたかも、著者が、カトリックの組織を離れた立場となって、自由に聖書のことや神のこと、教会のことを述べることができるようになったことを喜んでいるかのように。
 ヨシュアは、なにも批判をしようとしているのではない。ただ、ありのままに語っているだけだ。なぜそんなことができるのかは、この物語に与えられたヨシュアというキャラクターならではの理由によるものだが、おそらく著者は、キリストの弟子としてその十字架の贖いを信じる者一人一人が、真の共同体としての教会を築いていくことに希望を見いだし、実践していくことを願っているに違いない。誰もが、このヨシュアのようになって。それだから、サブタイトルとして、「自由と解放をもたらすひと」と表紙にも記されているのであろう。
 すでに1983年に書かれ、2002年には映画化もされているという、この『ヨシュア』に、日本語訳がなかったという理由でようやく今初めて出会った私は、幸運ではあったが、どこか悔しくも感じる。これは日本でももっと読まれてしかるべきだ。いや、読まれなければならない。




Takapan
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