本

『自由意志の向こう側』

ホンとの本

『自由意志の向こう側』
木島泰三
講談社選書メチエ737
\2250+
2020.11.

 分厚い。よほどの忍耐がなければ読めるものではない。だが、読み進んでいける。何故か。筆者の語り方が明晰だからである。また、論旨を見失わないように、丁寧に繰り返すなど、伝えようとする配慮がたっぷりあるように思う。
 それは、物わかりのよい人にとっては「くどい」ということになるのかもしれないが、鈍い私にはちょうど良い加減である。
 果たして自由意志はあるのか。人類が哲学めいた思考をするようになってから、因縁の問いである。
 当然あるではないか、という素朴な感情もあるだろうが、待てよ、との声がかかりうる。科学的に原因と結果が説明されるし、その故に機械が動くし、コンピュータのプログラムも走る。そのように世界のすべては原因と結果の連鎖により、ここからどうなるかも定まっているのだ、というのである。こうした考えを決定論という。  もちろん、これくらい大雑把に考えれば済むものならば苦労はいらない。なにぶん人類は哲学たるものが意識されてからいまなおこの問題に取り組み、決着がついていないのである。
 自由があるから私たちは選択ができるのだ、などと言っても、人体生理学においても物質の原因が結果を生むことが説明されつつあるし、現に脳内物質という観点から近年は特にその傾向が強い。私たちの心が、自分は自由だと思っているよ、などと言っても、そのように思うこと自体が、決定されているとしたらどうなのか、と凄まれる。
 だが、本当に決定論が徹底するのならば、私たちは自分の行為について、責任を負うことが必要でなくなるかもしれない。道徳的責任を考え、また犯罪に対する罰を与えるという営みが、すべて意味を失ってしまうであろう。これでは生活が成り立たないし、まさにナンセンスである。
 さらに哲学者は検討を重ねていくうちに、その一部の問題を解決するために、様々な前提を置いたり、議論の中心の位置をずらしたりしてきた。古代ギリシアにおいても、どちらの陣営からの理屈もけっこう出ていたのだが、そこへキリスト教が絡んできて厄介なことになった。神が登場するのである。神により私たちの運命が決定されているというプロテスタントの考えまで浮かんでくると、神と人、そしてその人の自由意志、あるいは神の摂理による決定などといった関係が錯綜して、議論がどんどん複雑になっていく。
 著者が注目しているのは、スピノザである。ユダヤ人でありつつ独特の神観念を呈し、他の哲学者がなかなか真似のできないような世界観を構築した。全くの在野の哲学者であったからこその強みであったかもしれない。奇妙な論争や実務に束縛されず、ただレンズを磨きながら、自分の世界をじっくりと築いていけばよい。スピノザは、主流の哲学史からするとどうしても傍流に置かれるが、どうしてどうして、近年非常に注目されている哲学者の一人である。神という言葉を外さないが、およそ人格心とは程遠い者なのである。だからその概念の解釈がいまの閉塞的な情況を打ち破る可能性の一つとして、取り上げられるのかもしれない。
 筆者によると、ひとつの人類の思考の難点は、目的論である。神が関わると、どうしても目的というものが入ってくる。従来の信仰的宗教に辟易していたカントですら、人間の理性は合目的なものを目指しているという世界像を信じて疑わなかった。だが、その目的はない、というところからスタートすると、肩の荷が下りて、自由について考え始めることができるのである。私たちはもはやカントの束縛を受ける必要はないのである。
 そこで本書は、いったい自然に目的はあるのかという問いから始まり、決定論というものを取り上げるが、そこに運命論というものが何食わぬ顔で収まり、都合のよいように出入りしている可能性があることを戒める。そこから西洋思想の自由意志論の概略を描くと、まずホッブズとデカルトによる自由意志論を調べる。目的がやはり巧妙に入り込んでいる。ライプニッツになると、機械的世界像が表に出るようでありながら、目的論はしっかり根柢に流れているのだという。それほどに、目的論の縛りからヨーロッパ人は抜けられなかったらしい。
 だから、ダーウィンの理論は、目的論すら自然の中に回収されていくという大胆な世界観の転換であったと言えるし、自然選択説というのは思いのほか意義があったということになるだろう。しかし、運命論はそうした自然という考え方を取り込んでまでも、なお生き延びる。遺伝子レベルで生命を捉えるときに、私たちは自分を行かそうとする遺伝子に操られている、あるいはそれを判断する脳の言いなりになっているということは考えられないだろうか。
 こうした議論は、最初から宗教というものを度外視していた。しかし、かつてはきっとそれはありえなかった。筆者は、神概念なしでこの自由意志論を考えようではないか、という立場のようである。それであってこそ、自由意志というものそのものを正面切って論じ、考え抜くことができるに違いない。宗教的な見方が入り込んでいるという構造を見破ることで、忍び込んでいる一種の偏見のようなものを取り除くことができるのではないだろうか、というわけである。
 しかしこの本において、筆者は明確な結論を出しているとは言いがたい。実に様々な立場から、そして哲学者から、筆者はこの問題に関する考え方を引用してきた。これだけ巧みに引用をするのだから、できれば「索引」を設けてほしかった。後から、誰それの思想の箇所を見たいと思ったときに、それがしづらいというのは、これだけ多くの議論を次々ともたらしている筆者を理解したい、あるいはこの問題を考えていきたいと思う者には酷である。参考文献が並ぶだけでは、それはできないのだ。かろうじて、長い長い注釈のまとまりをめくれば、そこにある文字を拾うことで、この辺りか、と思えないこともないが、章ごとに番号が振ってあるだけで、頁数がないものだから、やはりこれも実用には程遠い。
 少なくとも運命論には誤りがあるらしいということは呑み込めたが、自由意志を適切に打ち立てることができないのであっても、自由の概念を失うことがないというような方向性は、恐らくその次にそれをどう使うか、どうそこから私たちが生きるかということへとつながっていくべきものであろう。それは次作ということになるのだろうか。もしかすると、その辺りのことが、実のところ筆者の大きな関心なのではないか、本当は論じたいことなのではないか、そんなことを私はちらりと感じたのだが、それは全く私の側の都合のよい感想に過ぎない。
 なお、著者は、「僕は(そう、「私」ではなく「僕」というのがイカしている)〜と思う」と時折明確に、その「意見」を示す。事実と意見とを区別して読み取れというのは、学校での国語の鉄則であるが、これは書く側にも促される注意であるだろう。本書の読みやすさは、そうした点の明確化に現れている。ただ、思索的内容はそんなに容易ではないかもしれない。哲学的思考の訓練が少しはできていないと、読みづらいものだろう。が、チャレンジを阻むものではないのだから、こうした問題に関心がある自分を見出した人は、ひとつ手に取って開いてみては如何だろう。一日10頁進めば、一か月と少しで読み通ることができるのだから。




Takapan
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