本

『現代思想2021vol.49-9 自由意志』

ホンとの本

『現代思想2021vol.49-9 自由意志』
青土社
\1600+
2021.8.

 時々買うようになった「現代思想」。ある意味で昔と変わっていない。時代の風が感じられる。自分の知らない世界を教えてくれる。但しテーマは自分が知りたいものに限る。「自由意志」とはよいテーマだ。もちろん古典的な哲学の議論を知らないわけではない。だが、それがいまどうなっているのか。脳科学の方面での「常識」とは何だろうか。他の方面からのアプローチもあるのではないか。
 副題に「脳と心をめぐるアポリア」とあった。但し、脳科学に偏ったということはなかったので、安心して読めた。
 同じ実験が何度も言及される。脳科学における自由意志とくれば、もう定番の思想があるらしい。1980年代に何度か行われたらしいが、ベンジャミン・リベットが有名な実験を行っている。手首を曲げるときの脳波を調べ他のである。脳波が変化した後に手首が動くのは当然である。だが、被験者に、手首を曲げようと意図したのはいつかということを同時に調べると、脳波の変化より一瞬遅いことが分かったというのである。つまり、意志決定よりも脳の活動が先である、というのである。
 もちろん、事はこんなに単純ではあるまい。様々な批判が出されている。そしてその批判の出し方により、論者の観点が明らかになっていく。その意味では、この実験は、議論を促すための、やはり優れた叩き台となり得たということになる。
 なにしろ21人の論者が寄稿している(うち2人は対談)。その立場や専門も様々である。中にはカントを扱った人もいるが、物理学、特に量子論を展開する人もいる。数式が出されるとついていけないが、言わんとしていることは分かる。
 いろいろ素材は新しいが、本質的な部分は伝統的な議論から大きく発展しているようには感じなかったのが私の印象である。いや、それは読めていないのだ、と言われるかと思う。そう、確かに過去の哲学者の議論は、言葉が十分でない。当時の常識に間に合うような言い方をしているに過ぎないので、現代人が、様々なケースを想定してそれは自由だろうかという論じ方をもするとき、そのことを踏まえて古い人が考えているわけではないのは確かだ。フランクファート型事例のような思考実験は確かに面白いと言えるだろう。脳神経科学者がある人物の脳内にチップを埋め込んでいて操作しようとするとき、その人物が殺人を犯そうとするとき、そのチップなしで行ったが、もし殺人を思いとどまればチップが作動するという仕掛けだったら、この人物は殺人を避けることができなかったことになる。道徳的責任の問題を考える原理を、これは破るというのである。責任という問題と関連付けて考えてくるとき、昔はもっと抽象的な議論が多くて今私たちが問題にしていることを検討していないというのも本当だと思う。脳をコントロールするなどという発想自体が出てくるはずがなかった。非現実的だからである。だが現代は、そのようなこともありうる時代となっている。そのときに、自由や責任はどうなるのか、という問題である。この脳内チップはあまりに悪魔的な設定だが、現に私たちは、自動運転の自動車の実用化に向けて準備を進めている。それは近未来で必ず起こることなのだ。不注意な事故を防ぐというメリットのために開発されたが、実際に事故を起こしたときの責任問題はまだ解決していない。そうでなくても、ブレーキを自分は踏んだ、と言い張る被告に対して、先頃厳しい判決が出たという事実もある。
 こうして、過去においては神と人間との問題であり、宗教的な罪の問題として真剣に考えられていた自由意志の問題が、現代では神抜きで、いわば金の動きに関連して考察されているような現実がある。それは果たして、本質的な自由意志を考える哲学であるのだろうか。少なくとも、新たな問題なのだろうか。もっと根底的な箇所で整理することはできないのだろうか。
 インフォームドコンセントももう医療世界では常識となってきているが、これにしても、どこまで患者の自由意志なのか、そして責任はどうなるのか、問題が解決しているわけではない。また、本書では宗教的なものを考察する傾向が少ないために扱われていなかったが、宗教教団における「洗脳」問題もあるだろうと思う。本人は自由意志だと思っている。教団側も、自由意志だと決めている。だが第三者から見れば、とても自由意志だとは言えず、マインドコントロールされているとしか思えないことがある。そもそも宗教というものは、その自由意志を諦めるようなところに理想をもつ領域であるのかもしれない。こうなると、果たして自由意志がそれほど大切なのか、という問いさえ生まれてくる。本書にも、見る角度は違うが、そうした問いが提示されていた。
 自由意志論に対するのは、決定論であろう。だがこれも、神が定める運命論のようなものと関連して、神学的にも問われてきた問題である。それどころか、聖書を見ると、神ですら思い直すなど、自由にならないようにしか見えない場面すらある。事は決して簡単ではない。
 さらに言えば、古代ギリシアの哲学においては、「意志」というものが検討された形跡がないともいう。あれほど人間の魂や心理を、ソクラテスという皮肉者を用いて散々暴きまくったブラトンが、人間の心の中に「意志」というものを数え入れていないのである。あれはいったい何だったのか。それても、彼らが考えていた心の問題の中にある何者かを、いま私たちは偶々「意志」と呼んでいるだけなのだろうか。
 興味は尽きない。本書は結論を出すためのものではなく、博覧会のように、自由意志についての様々な立場からの声を展示してあるフィールドであるように見える。私たち読者は、ここから様々な見方のあることを知り、またそれらを気にしながら、自分の見える位置から、そして自分という存在の根柢を探りながら、自由とは何か、そこのところからまた問い直してみるように促されているように思われてならない。というのは、本書においても、しょせん「自由とは何か」という定義はどこにもないように見えるからである。




Takapan
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