本

『深谷式辞書・図鑑活用術』

ホンとの本

『深谷式辞書・図鑑活用術』
深谷圭助
小学館
\1470
2010.3.

 近頃は、「辞書」という言葉のイメージが、大きく変わりつつある。中学生ですら、電子辞書を愛用している。もちろん、ある程度経済環境に恵まれた層であるかと思っていたら、勉強をするため、と言えば親もそちらを買ってやる場合が多いらしい。国語辞典から英和や和英、漢和その他いろいろ買うよりは、よほど安価な感覚があるらしい。しかも、場所を取らない。そして、持ち運びも容易である。
 ゲーム機感覚であるのもいいらしい。ボタンを押せばとたんにそれが出る。殆ど考えが要らない。探す手間も要さないし、簡単で速い。とにかく楽だということだろう。鳥の鳴き声は出るし、英単語も発音が出てくると、これは紙の辞書の出る幕ではないということになりかねない。
 そこへ、この本の著者は、警告を鳴らす──などということではない。たんに小学一年生が喜んで辞書を引くようになる、ということの成功話であるのかもしれないが、小学校で勤務しているときに体験した実際の様子が活かされ、それを推奨する形になっている。それは、付箋を貼るということである。
 実物を見たことがある。付箋紙がどんどん付いていく。子ども用の国語辞典が、みるみる分厚くなっていく。付箋紙に、引いた言葉が書かれてある。また同じ言葉を調べたかったら、またアイウエオで引けばいいじゃないか、と私などは思う。それが、調べたところに記念の旗を立てるかのように、どんどん付箋紙を増やしていくのである。
 みっともないこと。もう二度と引けないような姿だし、引きにくいことこの上ない。
 だが、子どもたちの反応は、意外といい。楽しそうに辞書を引く作業をやっている。
 もう、その辞書を長く使うなどという配慮などそこにはない。自分がなしとげたことの証しが、一里塚のように刻まれていく。それが快感であるらしい。その気持ちは分からないでもない。
 ポストイット。だから、また剥がせるというわけで、本当に元の辞書に戻すつもりがあるならば、時間をかけて全部剥がすこともできるということだろうか。しかし、当面は剥がす必要もないし、剥がすつもりもないらしい。それどころか、この筆者によると、付箋紙に通し番号を振っておいて、いくつの言葉を辞書で引いたかを知って満足するという教育的配慮もあるのだという。とことん、使う道具として辞書を理解し、辞書というものと友だちになろうとする作戦なのだろう。自分から辞書を引こう、という気持ちをいつの間にかつくってしまうという意味では、確かに文句のない方法であるのかもしれない。
 本としては、やや冗長というか、同じようなことが繰り返し語られ、あるいは説明の順序が必ずしも有機的で論理的な流れであるかどうかはよく分からない点に戸惑う。保護者との面談であれこれと実例を挙げて説得しようとする教師の如く、読む者をだんだんとその気にさせていくという手段であるのかもしれない。
 後半は、国語辞典に限らず、様々なタイプの辞書や図鑑を実例に持ち出して、どういう動機で引かせるか、どういう説明に注目させるとよいか、そしてまたどういう順序で引かせると効果的であるのか、などを写真も加えて説明していく。ここからは、辞書や図鑑の活用術というタイトル通りの試みであるのだが、ここはやむを得ないにしろ、この本の出版社である小学館のあらゆる辞書と図鑑のコマーシャルになってしまっている。その意味では、出版社は喜んでこの本を出版し、販売しようとするであろうし、極端に言えばこの本を無料で配ってまわり、辞書や図鑑の宣伝に使ってもよいくらいである。なるほど、著者もうまい具合にやったわけだ。ここで、小学館以外の優れた辞書や図鑑の紹介もしておくと、より内容が公平で有用になったわけだが、まあそれは仕方がないところだろうか。
 それはそうと、この本でも終わりのほうに書いてあることだが、子どもに辞書を引けと命ずる親のほうが一向に辞書を引かず勉強もしない姿を毎日見せているとすると、これはあらゆる教育が失敗するきっかけとなりかねない。紙の辞書だと、周辺の景色も見えるし、寄り道もある。どこでもドアひとつあれば旅行はできる、と信じているような電子辞書に頼るとき、可愛い子にさせる「旅」は、もはやただのパック旅行、いやプログラムの一部でしかなくなってしまうのではないかだろうか。
 いや、それがそもそも時代遅れだというのか。




Takapan
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