本

『辞書引き術とノート術』

ホンとの本

『辞書引き術とノート術』
深谷圭助・菊池省三
フレーベル館
\1260
2010.7.

 勉強の仕方。私たちは長い学校生活を続ける中で、それを自ら覚えていく。いろいろな失敗を重ねる。また、自分に合った方法を見いだす中で、自分というものを客観的に見つめる眼差しをも養う。つまりは、自己認識のために、役立つのだ。勉強(学習)という課題に対峙した自分というものを強く意識するからである。
 しかし、当世、勉強法すら人から学んでいるように見える。手っ取り早くそれを教えるのが学習塾であり、私が身を浸している世界である。これは、自己の確立においても、問題を孕んでいるのではないかと私は思う。自分のことを棚に上げて言うのはおこがましいけれども。
 それはともかく、逆にまた、どうやってよいのか分からずとまどう子どもたちは少なくない。しかも、うるさい親は、我が子のちょっとした間違いが我慢できない。自分が叱られているかのように錯覚する場合があるのである。それで、自分のステイタスを守るプライドめいたもののために、自分の子どもを飾ろうとする。間違いは許さない。間違ってはならない。子どもたちはそのような強迫観念の中で日々暮らしているケースがある。このとき、間違わないように正しくやり方を覚えようという意図が働く。これでよいのかどうか、私は疑問なのであるが、とにかく大人が寄ってたかって、子どもたちに、勉強を教えようとしている。転ぶ前に全部教え尽くしてしまう。
 もしかすると、私はこの本の批判をしようとしているのであろうか。
 いや、実はそうではない。子どもたちが分からない、そうしたまさに学習の仕方ということについて、この本は実に適切に、解説してくれている。国語辞典の引き方というに留まらない。資料というものをそもそもどのように見ていくのか、どこで調べればよいのか、そんなところに踏み込んで、あらゆる「調べ」学習への準備を施してくれる。小さな頃から、小さくとも図鑑というものが楽しくて仕方がなかった私からは、信じられないほどの世話の焼きようであるが、近年新聞を使った学習や、インターネットすら素材に用いる学習があることを考えると、単純に辞典と図鑑が開ければよい、という時代とは明らかに違うことが分かる。こうなると、ネット上の資料が信用できるか、といったリテラシーの考え方をとることがどうしても必要になってくる。だからまた、この本のように、調べ方を丁寧に解説してくれる本の利用価値があるということになる。
 これが、ノートの作り方となると、さらに個性との関係が問われることになる。ノートなるものは、本人が本人の役に立つように書けばよいものであるはずである。途中の式を書くかどうか、先生の余談をメモするかどうか、それは生徒自身のセンスによるものであってよい。しかし、世の中にこんなノートもある、というふうに、いくらかのお手本になるようなものを見ることがあってもいい。思い当たるのは、私も中学生のときに、当時まだあった『中一コース』という学習雑誌にずいぶんお世話になったのだ。このようにノートを取るとよい、などという情報を、大いに参考にしてみたものである。
 オリジナリティなるものも、第一段階は模倣から始まるものであってもよい。型から入るというのが、日本文化であるという人もいる。学習方法にしても、いろいろ役立つものは参考にしてみたらいい。私もそうしたことの繰り返しでここまで来た。バイブルサイズの手帳も使ってみた。しかし今や文庫本サイズか名刺サイズになっている。そもそも知的作業そのものが、パソコンの中に移行しているとも言えるのだ。
 さて、結論めいたものを示す時が来た。
 この本、凄すぎる。単純にノートはこのように書きましょう、といったような、塾で配布する参考プリントなどとは訳が違う。練りに練った案、経験に裏打ちされた指導法、子どもが楽しく続けることができる工夫、そういうものが多彩に織り込まれている。
 指導者、保護者も一度手にとって戴きたい。子どもたち本人も、これを読んで知的生産の技術に関心をもつならば、それはまた最高にすばらしいかもしれない。方法論というのは、意味が薄いようで、実はたいへん濃いことであると私は思う。だからまた、ビジネスパーソンは、今日もまた、書店で自己啓発や情報整理の本を気にして見て、買うのである。




Takapan
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