本

『自殺論』

ホンとの本

『自殺論』
デュルケーム
宮島喬訳
中公文庫
\680+
1985.9.

 読んだ頃の本の価格からするとこれは薄いほうか、と思われるが、560頁の大部である。1897年の発行であるから、時代はかなり古い。しかし、自殺についてデータを駆使した考察は、古典的な価値を十分有するものと見られている。
 これは社会学的な著作である。人はどうして自殺するのか。これにはいくつかの型を見出しており、そのいずれにしても、社会的な要因をも重視すべきだということを指摘している。ずいぶん多くの資料を持ち出してきて、特にフランスにおける地域差を示したことから考えていくという方法は、当時かなりの説得力をもったのではないだろうか。
 社会を理由とするからには、歴史的地理的原因を挙げる必要があるだろうし、社会制度や政治的背景の影響が多いと思われる。従って、いまの私たちにそのまま適用できるかどうかというと、もちろん疑問である。まして、ヨーロッパの生活や宗教を基盤としている中で、果たしてどこまで私たちが役立てられるかということになると、どうしようもないのだが、それでも、こうした調査と考察を重ねたということを見て、私たちもまた、刺激を受けて自殺について考えることの意義を知ることになるのだから、学ぶことは必要だと言えるだろう。
 上のようなことを記しても、普通のことではないのか、と見られるかもしれない。だが自殺は当初、当人の精神異常に基づくものであって、社会の側としては、つまり他人には何の関係もないものと見られていた。いわゆる自己責任の路線の考え方である。このように捉えると、そこへ社会の責任という道を作り出したデュルケームの仕事の意義は大きいのではないだろうか。私たちはいまもなお、自己責任ということで、関わりたくない問題については「自分が悪い」と突き放して考えがちである。そしてその行き着くところが、残酷な差別発言へとつながっていくことを思うと、常識的な見方であった、本人の問題だとしてしまわないものとしての学問的なチャレンジは、意義深いものだと思うのである。
 本書の中で、自殺の型を分類している。果たして個人の死が、一定の原因に収束されるのか、そうした疑問もあるだろうが、もちろんデュルケームも人間の心理をそんなに単純に決めつけているわけではない。しかし学問としての説を告げようということになると、どうしてもそのような分類は必要な手続きとなる。その中で、「アノミー的自殺」という言葉が目を惹く。これは本書独特の観点であり用語であると言うべきだろう。
 アノミーというのは、「ノモスのない」という語源であったが、デュルケームの用いた「無規制」というような概念が、それ以後この語に帰せられるようになったという。近代社会が人のつながりや心をばらばらにしていく様子を示す語とされている。社会的な価値観や基準が瓦解している状態である。大きなものとしては、経済的理由、つまりは貧困がそれである。貧困のために自殺するという発想も普通にはなされていなかったのであろう。そしてそれは確実に社会的要因であるという視点もなかなかもてなかったのであろう。それはまた、宗教的歯止めも利かなくなったという事態を表す。人の活動に対する規制ができなくなった状態である。
 さらに、それは離婚問題を主因とする家族の問題であるとも言われている。プロテスタントの州に離婚が多く、自殺も多いという点は、何度も指摘されている。この分析には、いまの常識とは異なるような男女の生活のあり方が描かれているが、それは仕方あるまい。女性には選挙権もなく、社会進出も認められていなかった時代である。またキリスト教における離婚についての考え方の問題も含まれるので、単純にいまに重ねることはできないが、それでも、家族というのは、現在の私たちにとっても、考えるべき重要な項目ではあるまいか。
 個人の権利が守られ、個人の自由という問題が当然の常識のように考える時代、それはもちろん良い面もあるのだが、手放しで喜んでいられる事柄でもないということを感じる。それは、近代産業社会の展開と、その基盤になった近代的自我の思想など、この百年ほどて重大な反省事項として持ち上がっている問題である。デュルケームは自殺という観点だけで、そのひとつのあり方に挑戦した。確かに意義ある研究であったと言えよう。宗教的にしろ家族的にしろ、人間がバラバラになっていく。そのときに人間は絶望を覚え、自ら命を絶つ可能性が高まる。事は命の問題である。安易に自己責任としない考察の方向は、私たちも受け継ぎながら、なんとか助け合って生きていく道はできないものかと模索したい。そして、自殺を考える人に、何かしらブレーキをかけられるような機会が現れないかと願っている。




Takapan
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