本

『人類と神々の4万年史(上)(下)』

ホンとの本

『人類と神々の4万年史(上)(下)』
ニール・マクレガー
高里ひろ訳
河出書房新社
各\3800+
2022.2.

 著者は、長く大英博物館長を務めた人だという。恐れ入る。豊富な資料と知識が私たちに迫る。カラー写真も多く、貴重な遺跡や世界の習慣などが目の前に現れる。価格は安くないが、それだけの価値は十分にあると見た。
 テーマは、宗教である。特定の宗教から見たという形はとらない。純粋に、人類の歴史の中で、宗教をどのように捉えていたのか、客観的な資料と調査から紹介しようというのである。
 信仰はつまらないものだ、などという考えは、近年の科学に鼻高々の人間たちが勝手に下している判断に過ぎない。私たちは日常、「信じる」ことを繰り返して生きているのだ。あなたが夕食を食べることができるかどうかは、科学で証明はできない。あなたが家族と今日平和な一日を閉じることができるかどうかは、科学とは関係がない。私たちはそれを、ただ「信じている」だけなのである。
 しかし、そうしたレベルで本書は綴られているのではない。いまの世界の危機を十分に感じ取りながら、人類の足跡を、しかもその「信じる」という行為の範疇で、見渡そうというのである。
 ディディオンの「わたしたちは生きるために、自らに物語を語る」という言葉を引用して、過去の物語を知り、未来を語る物語をもまた信じるとき、本当に未来がつくられていくに違いないことを胸に、神々にまつわる壮大な歴史への冒険が始まるということになる。これは、政治のような営みをも見通す、すぐれたパースペクティブなのだ。
 それで、最初は推測の器の中に詰まった水を、できるだけ澄んだものにしようとの試みである。ライオンマンという遺物について私は初めて知った。それほどに、無知なのである。
 人類は、火を、水を、また光を、神々の象徴として扱ってきた。そして死という得体の知れない相手を、なんとか知恵の中に収めたいともがいてきた。キリスト教の文化が多少大きくなるのは仕方がないが、祈りや歌の意味を、様々な側面から見つめようとするときに、キリスト者はかなり分かりやすく読めるものだとありがたく思った。
 上巻の最後は、場所というモチーフから、神の家や献げ物、犠牲や巡礼、そして祝祭へと筆が運ぶ。この本はこれで終わりだが、下巻がある。女神の背景や、一神教と寛容の関係など、興味深い話題が多い。一神教が本質的に争い好きで、多神教が平和なのだ、という神話を、日本人は好む。自分たちの正しさを誇りたいからだ。日本は西洋にぺこぺこして自虐的だ、などとも言うが、たぶんむしろ逆だろう。自虐のような態度によって、自分の正しさを内心誇っていると思うのだ。つまり、非寛容なのは日本の内に潜んでいるのではない、と。もちろん本書はそうしたことをいうものではないが、たんにキリスト教内部だけでこうした問題を議論していたのでは分からない視野を、本書はもっている。すなわち、イスラムの考えや、インドの宗教を大きく取り上げていくのだ。このインドは、日本人からすれば、多神教の寛容な見本だと思い込んでいるところがあるかもしれないが、そういうものではないことが明らかになってくる。また、西欧社会がキリスト教だけでできているような、いつの時代の歴史を言っているのか分からないくらいの話を信じているのでない人ならば、自然と受け容れることができるような書き方がここにあるのだとすれば、宗教一般の視野をもちながら、もういちどキリスト教を考えてみる、という試みが有効であることに気づくのではないかと思われる。
 そう。もはや「神はいない!」と明言するような時代がいまここにあるのだ。フランス革命が七曜をなくしたなどという歴史の逸話めいたものは聞いていたが、その当時実際にどういうことが行われていたのか、人々が何を考えていたのか、そうしたことを本書は最後によく描いてくれた。それは共産主義の台頭にも関わってくる。しかし、宗教や神々が、本当になくなるということはない。著者は、「ともに生きる」という題の章で、宗教が本当に衰退してしまったら、人間社会のつながりも危うくなる危険を捉えている。なんらかのコミュニティ、そこには人間を支えるものが必ずあるはずだということを、私たちに考えさせてくれるように感じる。その最後の希望のようなものに、「聖母」をもたらすところに、示唆するものがあったとするべきなのだろうか。




Takapan
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