本

『結局、自分のことしか考えない人たち』

ホンとの本

『結局、自分のことしか考えない人たち』
サンディ・ホチキス
江口泰子訳
草思社
\1575
2009.5

 疑問文の原題を、洒落た邦題にしてくれた。「結局」が利いている。うまいと思う。副題は「自己愛人間とどうつきあえばいいのか」と小さく書かれているが、これがこの本のテーマであり、結論であろうと思われる。
 ソーシャルワーカーでありセラピストとして大活躍の著者が、患者の治療のためというよりは、その「困った人」と関わる周囲の人が崩れないようにするにはどうやって身を守るとよいのか、についてアドバイスをしてくれた、という感じの本である。
 露骨に「自己愛人間」と書くと、よほど特殊な人間であるかのように見えるかもしれない。「自己愛性パーソナリティ障害」を抱えた人のことである。これは予想するより多く存在する。その七つの大罪とは、「恥を知らない」「つねに歪曲し、幻想をつくりだす」「傲慢な態度で見下す」「ねたみの対象をこき下ろす」「つねに特別扱いを求める」「他人を平気で利用する」「相手を自分の一部とみなす」ことだという。
 街を歩いていても、その手の人は多く見つかるように思われる。タバコを手に煙をふかしながら歩いている人など、そうであろう。これだけ迷惑であることが周知の時代に、まだやっているというのは、もう助けようがないほどのことなのだ。
 著者も、こうした人を直してあげようなどと考えてはならないと釘を刺す。それこそ、彼らの思うつぼなのだ。彼らは、まことに自分が何をしているか分からない。他人を利用することが平気でできるわけだし、説得でもしようものなら、彼らの自己愛が強く働いてすべてをシャットアウトしてしまうだけであろう。だから、接する人が、利用されないように、身を守る術を心得ている必要があるのだ、と主張する。本の後半では、専らそのことに力が注がれている。
 幼児期までに、親との関係の中で、この自己愛性パーソナリティ障害は形づくられることが多いという。そういうメカニズムあるいは傾向というものも、この本は十分に教えてくれる。なにも、それは特別な出来事でもなく、とくにこの現代という時代の中で、よりありがちなことになってきたようである。
 もちろん、自分の中にそういうところがないかどうかの点検も必要である。自分は関係がない、そんなふうに他人を利用してなどいない、と口で言うのは簡単であるが、極端なこの障害に陥ってなどいなくても、対人関係の中で、省みる価値は十分あるだろうと思う。だが私の場合、この決して読みやすいとは言えない本が生き生きと読み進められた背景には、実にこれに合うような実例を身近に知っていたという理由がある。果たして「自己愛性」と限定してよいかどうかは分からない。ただ、間違いなくパーソナリティ障害である。いくらでも嘘がつける。自己を守る目的があるからだ。その上で、権威が好きで自らもうまく権威ある地位を得たものだから、「困った」性格を十分宿している。そのような行動も十分してきたし、いくら何を指摘しても、結局強かに自分の身を守ることのほかはすることがない。母親との問題的関係を宿しているのも、この本にある通りだろうと推察される。それだから、いざ不利な事態になったとしても、自己保身のために自分の意のままにならない他人を悪役に仕立てるように利用し、周囲の人間をなんとか自分に味方させようと利用していく様子など、もうこの本に登場させてよいのではないかと思われるくらいに、的中しているのだ。
 なるほど、実例があると読みやすい。ない場合には、そんな人が本当にいるのだろうかと思われかねないものであるが、この分析や指摘については、私はアメリカと日本とは大違いだ、と背を向ける必要はないと思う。もちろん、全く同じではなく、日本にはこの自己愛の中に、「甘え」(甘えだから即悪いという意味ではない)が裏打ちされ、個人主義になりきれない中でなおかつ自己を愛してならない背景が伴っているだろうと予想される。だから、日本人のセラピストの中から、これをさらに日本の風土の中で適用して解説していく人がいたら、より私たちに迫ってくる内容になるのではないか、とも思われる。
 理詰めで読むというよりも、誰かモデルに思い当たったら、ぐいぐいと読み進めることのできる本であるといえるだろう。




Takapan
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