本

『事件に走った少女たち』

ホンとの本

『事件に走った少女たち』
村山士郎
新日本出版社
\1575
2005.1

 子どもたちによる犯罪がセンセーショナルに報道される。それについていろいろ思案するのは悪くない。自分の子どもの問題として考えると決して他人事とは思えないところがあるだろう。また、どうしてそうなったのかを問い続けるとき、大人である自分がその一因として加わっている可能性を排除しない誠実な思考をする人は、幸いである。
 そう言うのも、ただ世の中のことを悪く言うばかりで、子どもたちの姿についても実に非難的で悲観的なことばかりしか告げない人々がいるからである。
 この本に例として記されている事件は、大きく報道され有名になったものばかりである。そして、それら未成年による事件は、保護規定などがあり、詳細については知らされない部分が多い。傍の者にとって判断材料は、一般に新聞などの報道に限られる。新聞の論調にしても、テレビのコメントにしても、明るいものは基本的にない。それを鵜呑みにしていくと、もう次の世代は悲惨なものにしかならないように思えてしまう。
 果たして、そうだろうか。この本の著者は、最初に明言している。豊かな成長をさせてあげたいし、未来を信じていきたい、と。未来に絶望することは簡単である。自分で何もしないことに決めたらいい。だが、何かできると自分を励ますならば、未来はきっとあると信じていく。信じるから、何かする力が起こってくる。
 私は、この考え方が好きだ。
 実に陰惨な事件が取り扱われ、単なる新聞報道よりも一歩も二歩も踏み込んだ調査によって事件の細部が描かれていく。ついにはネクロフェリア(死体愛好?)の世界まで描ききる。まともに活字すら追えない自分に気づくほどだ。
 だが、子どもたちの言葉にならない訴えを見ようとする眼差しは、実に的確である。まことに、見えないものを見るという気持ちである。自分はここにいるよ、認めて、知って、受け止めて……そんな子どもたちの悲痛な叫びが聞こえるおとなは、きっと子どもたちの力になり、未来になることだろう。
 子どもたちの行き場のないエネルギーが、何か異常なと言えるような行動として現れてきたときにも、慌てることなく、またその原因や犯人を捜そうと躍起になることなく、おとなとしての生き方を省みて、子どもたちの未来を信じて協力していきたい。私の中に漠然としていた願いも、この本ではちゃんと描かれてあった。
 観念的ではなく、実地の調査が実を結ぶ。生の子どもたちの声が集められていくとき、つまり子どもたちの顔が見えるようなデータを集めていくとき、無責任な断罪などがはびこることはない。子どもたちに共感しつつ、自らを省みるゆとりを、おとなたちこそが、持たなければならない必要に迫られている。




Takapan
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