本

『時間の本』

ホンとの本

『時間の本』
立木鷹志
国書刊行会
\3400+
2013.10.

 博学の方のようである。私が存じ上げないだけで、おそらく一部でたいへん有名な方ではないかと思う。表通りの思想や社会論評とは異なり、自分の関心の向かうところを正直に追究し、明らかにしようともがいているように見える。お決まりの学術的な路線ではない、どこかアングラな空気漂う暗い道を、敢然と突き進むようなイメージを勝手に抱いてしまった。
 時間についての研究なり究明は、各方面から見られる。哲学的な思索も当選古来多いわけであったが、近年物理学の方からこれが深く研究されている。数式処理をする思想ということで、古代にはあまり見られなかった手法である。それはあまりに無味乾燥、と思われるかもしれないが、人間の覚える人生というものについて時間は非常に関わりの深いものであるだけに、たとえ数式で探求したとしても、一定の人生論的理解はありうるものだろう。いや、これは人生というに留まらず、そもそもの宇宙の生成なり終末なりの、宇宙論全体に関わってくるわけであるから、スケールは全存在へも行き渡る。
 私が哲学を志したのも、これがテーマであった。中学生のころには、物理学的追究が自分の関心であったが、哲学という思索がその物理学をも包む大きな捉え方ができるものと知り、後にそれこそ、と思うようになった。
 ただ、結局私の能力の問題もあるが、哲学で究めることができないということが哲学内部で明らかになってきたあたりで、路頭に迷い、神との出会いからそちらの領域で私の課題も解決の糸口を得たことになった。
 さて、本書は装丁からして見事な書である。学術書かと思わせるほどの内容でもあるのだが、根拠付けのための引用や参考指示などを一切行わず、ひたすら著者の語りですべてを完了している。時折参考程度の図版があり、理解を助けるけれども、この本自体がひとつの文学作品であるかのように、流れていく。ひとり語りの小説であるかのようでもある。
 かといって、フィクションや虚構で作られたのではない。それぞれ著者の知る、時間論の各方面の成果をふんだんに取り入れた説明である。論理展開に著者の味付けや誤謬が混じっているかもしれないが、概ね事実として明らかにされていることや、事実と思われる考えなどを色濃く反映させながら、話が展開していく。
 ニュートンの絶対時間からフッサールの内的時間意識、これが冒頭を飾り、さまざまな形而上学的検討を踏まえた上で、時間が対象化され計測されていく歴史をたどる。その結果行き着いたのは現代物理学の時間把握である。しかし、ひとはそうした時間理解で満足をするものではない。理論的でなくても、人の心に説得力のある形で、浮かび上がってくるのは、文学である。文学における時間が、著者の好みも加担しながら詳らかに紹介されていく。最後に、無意識の領域で時間をどう感覚するか、夢という中で時間が捉えられて本書は終わりを告げる。こうして、どこか幻想的な世界の中で、時間についての考察は幕を閉じる仕掛けである。
 歴史的な様々なエピソードが、人間が関わった限りなんでも詰まっているかのような本として、十分楽しめる内容となっている。ただし、思想的な分野への関心や一定の哲学の知識がなければ、とても耐えられるものではないだろう。物理学へのある程度の知識も要求される。私のようにたまたまそのどちらにも関心をもっていた人間にとって、楽しめた、というほうが適切かもしれない。
 厚みのある叙述は、著者の持ち味なのだろう。博学の語りを楽しむ気持ちで、できるだけ素早く読めたらよいのではないかと思う。学的なこだわりやルールというものに関係せず、人類が時間とどう格闘してきたのか、という読みものとして、申し分のない迫力と内容をとを秘めている。読み応えのある本であった。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります